埼玉県嵐山町の杉山城(撮影/西股総生、以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

戦争が増えると城も増える

  南北朝時代に入ると、もう少し本格的な城が築かれるようになります。日本のあちこちで、武士たちが幕府方と朝廷方、北朝方と南朝方に分かれて戦うようになるからです。

 といっても、この時代の城はまだまだ土造り。土地を平らにならして曲輪を造り、必要な場所に空堀を掘り、柵や木戸を設けたような城です。こうした素朴な城が、戦いのたびに必要に応じて築かれ、戦いが終われば用済みになりました。

写真1:井出の沢古戦場跡(東京都町田市)。南北朝時代の古戦場の一つ。画面右手の道路はかつての鎌倉街道だ。街道を進んでくる敵を迎え撃つため、小高い丘の上に陣を置いていた様子がわかる。

 様子が大きく変わるのは、室町時代の後半、15世紀の半ばくらいからです。まず、1452年に関東地方で享徳(きょうとく)の乱という大きな内乱が起き、1467年には京都で応仁の乱が始まります。室町幕府の統制力は失われて、各地の勢力が、たがいに実力で領地を支配しようとする、戦いの時代に突入します。戦国時代です。

 日本全国にある城の総数は、4万とも5万ともいわれていますが、そのほとんど、おそらく80〜90%くらいは、戦国時代に築かれたものです。なぜ、そんなにもたくさんの城が築かれたかというと、答えは簡単で、たくさん戦争をしたからです。

写真2:東京都町田市の小野路(おのじ)城。戦国時代の初め頃に築かれたと推定される城。古道が走る丘の上に空堀や曲輪が残っているのだが、何も知らないとタダの丘や雑木林にしか見えない。

 日本のあちこちで、いろいろな勢力が入り乱れて戦うと、情勢が複雑になります。すると、戦いの様相も複雑になって、作戦上の駆け引きが大切になってきます。

 たとえば、前線に大軍をずっと張り付けておくと、兵たちが疲れてしまうし、兵糧の補給も大変です。主力部隊はいったん後ろに下げて、前線は少人数でしばらく持ちこたえたい。本拠と前線の間があいてしまったら、途中に中継基地もほしくなります。

 本隊が敵の主力とにらみ合っている間に、山あいの抜け道をとおってきた敵の別働隊に、横あいを衝かれたりするのも困ります。部隊を出して、抜け道を警戒させなくてはなりません。送り込まれた部隊は、敵をいち早くキャッチできるように、道を見下ろせる山の上に陣取ります。そして、夜討ちを食らったりしないように、敵を防ぐ工夫をします。

写真3:新潟県妙高市の鮫ヶ尾(さめがお)城(画面中央)。戦国史ファンには上杉景虎が自刃した城として知られる。戦国時代には、このような山城が日本中に多数築かれた。
写真4:鮫ヶ尾城に登ってみると、山の上に曲輪や空堀がいくつも残っている。山城の城内はだいたいこんな感じ。写真は空堀を写したカットなのだが、わかるかな?