(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
城の必要がなかった平安時代
平安時代の後半になると、地方では武士が次第に実力を蓄えてきます。彼らは、しばしば土地や利権、あるいは名誉をめぐって争いましたが、本格的な城は築きませんでした。
なぜかというと、国家が武力を民間にアウトソーシングしてしまった社会だからです。土地・利権や名誉をめぐる武士たちの戦いは、個人対個人、家対家が基本。ライバルさえ討ち取ってしまえば決着するので、城を築く必要がなかったのです。
では、平安時代には城らしいものがまったく築かれなかったかというと、そうでもありません。東北地方の北部では、城柵官衙がすたれるのと入れ替わるように、濠で囲まれた集落が現れるのです。これらは、防禦性集落と呼ばれています。
防禦性集落の存在は考古学的調査によってわかってきたもので、当時の記録には出てきません。なので、何者が何のために築いたのか、はっきりしたことはわかりません。ただ、どうやら中央の記録には残らないような戦いが、この地方ではおきていたらしいのです。そうした戦いの結果として、奥州藤原氏が東北地方の覇権を握ることになったのでしょう。
臨時の戦闘施設だった城
この次に「城」が登場するのは、平安時代のいちばん終わり頃です。平氏政権への不満が高まって各地で反乱が起き、源頼朝や木曾義仲が兵を挙げて平氏を滅ぼし、鎌倉幕府が打ち立てられる内乱の時代。わかりやすくいえば、源平合戦の時代ですね。