甲府駅前にある武田信玄像(山梨県)

(乃至 政彦:歴史家)

上杉政虎(謙信)が関東で北条氏康と争っていた頃、ついに甲斐の武田信玄が動き出した。国境近辺の不満分子の成敗に追われ、身動きが取れずにいたのだ。越後へ押し進み、謙信の拠点を次々に攻略していく信玄。反攻を止めなければ、越後全土が惨劇を迎えるのは必定である。関東在陣か、あるいは越後帰陣か。決断を迫られた謙信の行動は?(JBpress)

上杉政虎、武蔵忍城へ迫る

 成田長泰が離反したことで、上杉政虎は鎌倉から後退を余儀なくされた。

 北条氏康からの逆襲、追撃が始まる。

 武蔵へ移った政虎は、長泰の籠る忍城へ押し寄せ、「おい、どういうことだ。顔を出せ、この野郎」とばかりに最前線で指揮を執ったらしい。

 この時の逸話がある。城壁の近くにいる政虎に、鉄炮兵が銃口を向けた。しかし弾一発も当たらなかった。兵たちは驚いて、何度も銃撃を繰り返したが、やはり傷一つ負わせることも出来なかった。小田原攻めでもこれに似た逸話があるが、この時は政虎だけでなく、左右の兵士に、弾が髪を掠めても一動だにしなかったという。

 激戦区に馬を乗り入れて督戦するのが政虎の用兵だった。それでもなぜか不思議と怪我を負うことがなかった。ひょっとすると身を挺して大将を警護する兵が多数いたのかもしれない。ただ、詰めの城までは落とせたが、忍城の守りは固く、容易には制圧できそうになかった。

 同じ頃、北条軍が上杉軍に占領された松山城に押し寄せた。防衛する太田資正は、自分だけでは守れないと見て、援軍を要請した。政虎は忍城に手を焼いていたが、資正からの頼みとあれば断れない。すぐに将兵を派遣した。

 この間、関東諸士は自領へ戻り、隣人への警戒を強めていた。昨日の敵は今日の友として、鎌倉に集まったかれらも月日が経てば、昨日の友は今日の敵と疑心暗鬼に陥ったのである。一度、一致団結した八州の将兵はここにふたたびバラバラとなった。

北条氏康の反攻

 同年5月、北条氏康は箱根別当の僧正に、上杉軍追撃の勝利祈願を依頼した。すると僧正の融山は「敵の出張でひとえに御無念のこととご同情しますが、短気の合戦をするのはいかがかものかと思います」と説教するような手紙を返した。しかも「北条は日本の備たる副将軍だった御家です。そしてあなたはその御名字を受ける御身のはず」、ならばそんなことをしなくても「万民に御哀憐をもち、百姓に礼を尽くして接すれば、国家はおのずと治るのではないでしょうか」と非難がましい意見まで加えていた(5月25日付融山書状写)。

 僧正には北条の為政者ぶりが、それぐらい粗雑に見えていたのである。

 これを受けた氏康は、この3日後、強い語調の返書を送りつけた。

「さる春、景虎の威勢により、正木時茂をはじめとする八州の弓取りが、わが分国に押し寄せて来ましたが、武蔵と相模にある城のうち、江戸・河越など7、8箇所の地を無事に守り通し、しかも何度かは戦勝して、凶徒はほどなく敗北することになりました。この時、敵の凡下を1000人以上討ち取りましたが、(まだ依頼をかけてはいませんが、これも)御祈念の力によるものかなと思います」と皮肉っぽく述べ、さらに「万民への哀憐、百姓への礼について御意見を受けましたが、去年は分国中の諸郷に徳政を下し、妻子や下人の質入れを無効にいたしました」と善政の成果を主張した。

 加えて「わたしは10年前から目安箱を設置し、諸人の訴えを聞くようにしています」と、これまで自分がどれだけ民政に心を尽くしたかを説いた。もしこの史料が残ってなかったら、北条氏康の善政は、今日ほど語り草となっていなかっただろう。氏康は宣伝工作が上手でなかったために、地味なイメージが強いが、実際には領民の安寧を願い、そのための方策を怠らなかった。

 ただ、それでその地に生きる領民が幸せに感じていたかというとそれは別で、周辺国から「他国の凶徒」と非難される侵略者の支配下にあることを不満に思っていたのはたしかだろう。だから僧正・融山は、これら民衆の声と苦しい生活を見聞きして、氏康批判を展開したのである。

 ともあれ氏康は、決断力のある大将だった。領民には悪いが、今は無理をしてでも政虎を追撃するべきだと見込み、その勢力回復に総力を挙げたのである。