史跡古河公方館(茨城県古河市)

(乃至 政彦:歴史家)

先日放送が再開された大河ドラマ「麒麟がくる」で登場した関白・近衛前久。公家でありながら自ら政治に介入する変わり者の貴族は、上杉謙信の補佐のもと、関東の大軍を指揮する身となり、威風堂々と軍事上洛を挙行して、畿内の政局を改めることを大望としていた。しかし武田・北条両軍の予想以上の抵抗はもとより、関東公方らの争いに巻き込まれ、野望は阻まれていたのである。(JBpress)

古河城に残っていた貴人たち

 永禄4年(1561)冬、関東管領代・上杉輝虎(謙信)が越後から関東に戻ってきた。帰陣した理由は、関白・近衛前久から10月5日付の書状で、武蔵松山城の危難を急報されたことにある。前久は関東の下総古河城にいた。同城には、古河公方・足利藤氏と、前関東管領(さきのかんとうかんれい)・上杉憲政が残り、その護衛役として輝虎家臣の長尾満景が置かれていた。

関東公方の戸惑い

 ところでこの頃、古河城では重大な騒動があったらしい。同月15日、前久が公方の宿老である下総関宿城主・簗田晴助に対して「古河城に関して、おかしな噂が流れているとの注進を受け、内容を理解しました。今夜は堅く用心するべきです。明日には[公方の御前に]参上してください」と伝える書状があるのだ。ただし騒動の具体的内容については言及がない。では何があったのか。それは、このあとの輝虎と前久の言動から浮かび上がらせてみよう。

輝虎不在の関東と北条軍の反攻

 輝虎不在の関東で、北条軍が反攻を開始した。その進撃は凄まじく、上杉陣営の諸士はほとんど抗する術がなかった。このままでは各個撃破され、滅亡の憂き目に遭わされる。

 そうしたなか、下野の唐沢山城主・佐野昌綱に離反の疑いが生じた。上杉から北条に寝返るというのだ。これが事実とすれば、昌綱は松山城を攻める北条軍と、連携しようとするだろう。昌綱から見て、西にある上野は、輝虎が着陣して、手出しできない。だが、南の下総は手薄である。すると、南進して古河城を攻撃するのが最良だ。北条軍の支援になるし、公方・足利藤氏を生け捕れたら、いい手土産にもなる。

 これで藤氏は大きな不安にかられたらしい。イエスマンの側近たちも「ならば、早く逃げましょう」と同調したようだ。

 ここでかれらの拠点に思いを巡らせてみよう。古河城と関宿城はかなり近く、徒歩でも半日とかからない。その古河城と昌綱の唐沢山城も、たった1日で移動できる位置にある。昌綱がその気になれば、いつでも公方を攻められるのだ。いっぽう関宿城は、徒歩にして半日足らずのレベルだが、古河城よりわずかだけ遠くにある。

 ならば、関宿城にいる方がまだ安全だ。そこで公方は、関宿城の簗田晴助のもとへ使者を派遣して「今からでもそちらに動座したいのだが……」と打診したと思われる。晴助は「それはさすがにまずい」と思っても、反論したり阻止したりする余裕がない。

 なぜ、まずいのか。古河城に近衛前久と上杉憲政がいるからである。もし公方がかれらと離れ離れになって単独行動を採り始めたら、上杉陣営にさらなる動揺を生むであろう。さりとて昌綱が離反する噂だけで、前久と憲政まで動座させるわけにもいかない。もし離反が事実無根の虚報で、その事実がなかったとしたら、それこそ疑心暗鬼の種を振り撒くことになってしまう。そこで晴助は、前久に使いを送り、公方の古河退去を抑止するよう頼んだのだった。