『真如堂縁起絵巻』下巻 真正極楽寺蔵

(乃至 政彦:歴史家)

武田信玄の「西上作戦」を考える(1)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66465

通説への疑問

 通説によると、戦地禁制の出されていない地域では、いつ誰が戦災に遭ってもおかしくない。雑兵の類は、いつも略奪行為に飢えていたからである。こうした無軌道な暴力を恐れる人々は、涙を忍んで戦地禁制を要請した──ということになっている。

 ここまではいい。では、その戦災とやらは、いったい誰が何のために起こすのだろうか。研究者の多くは、雑兵たちが臨時収入として携わった切ない出稼ぎだったという説を支持している(支持しない研究者もいる)。

 だが、末端兵の私的な欲望による略奪が、どこまで横行していただろうか。戦国時代は100年以上も続いている。なのに、そんな収奪と暴力に依存する体制が長期的に継続し得るだろうか(もちろん時に暴走することもあるが、常習していた様子はない)。

 マッドマックスや北斗の拳では、第一次産業が抑圧され、ささやかな農作物や炭鉱品も力ある者に奪い取られ、加害者と被害者の関係が続けられている。このような対立が持続すれば、上下どちらの階層も成長することなく、より大きな災害や暴力がやってくれば、途端に破綻するであろう。技術の進歩や文明の発展も起こり得ない。

 だが、戦国武将が攻め入る地は、同じ文化圏の同じ社会を構成する人々の生活空間である。どちらの人々(兵士と民衆の双方)にとっても、日常生活と非日常生活の区分は曖昧だ。いくら敵地でも、暴力による収奪は一つの社会を根本から否定する営みとなる。

 そこへ全軍でもって暴力行使をする意味などない。周辺国との交渉、民間の交友、勧善と懲悪による倫理観の保持、これらが全て成り立たなくなる。いくら戦乱の時代とはいえ、朝廷・幕府などの中央政府も健在だ。もし大名たちが異民族や別国家の意識で略奪依存の体制を築き上げようとすれば、どうなるだろうか。自浄作用が働いて、御所巻や主君押込などの下克上が起こり、地方権力は民衆の支持を受けやすい人物に取って変わられたであろう。

 弱肉強食の時代だったというが、その強弱を定めるのは暴力性だけではなく、多数の支持を集める人間性もまた重きを占めていたのである。