比叡山延暦寺根本中堂 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

比叡山を焼いた織田信長と仏教

 織田信長といえば、元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ちが有名である。

 この焼き討ちをもって、“信長は仏教や僧侶が嫌いだった”という解釈がある。

 だが信長は為政者であるから、僧侶や仏教の保護にも熱心であった。形の上では浄土宗に帰依しており、「天下布武」の印判を定めたのも信長と親しい禅僧の沢彦宗恩である。また、信長は傅役・平手政秀の菩提寺として政秀寺を建立させてもいる。

 すると、僧侶と仏教がある文化圏に生きる中世人として、ごく当たり前の常識に生きていたことは間違いない。それでも信長が一部の宗教勢力と激しく敵対していたのは事実であり、そこには感情的な側面も感じ取れる。

 今回は、信長のそうした側面の動きを見ていく。

焼き討ちの実態

 信長が比叡山を焼き討ちした時、僧俗併せて3000人(僧侶1500人、俗人の男女児童1500人)を殺害したことが当時の史料に伝えられている。

 ただし、被害に遭った僧侶の実態はよくわかっていない。『信長公記』は「高僧・貴僧」も関係なく殺害したと記しているが、歴史に残るほどの有名人が殺害された形跡はない(あればぜひご教示ください)。

 当時のフロイス書簡によれば、信長と対決する前の比叡山は「かつては3800あった寺院も、戦争が重なって400程しか残っていなかった」と言う。つまり比叡山は焼き討ち前から、その施設の9割近く(!)を失っていたのである。しかもそこに住む僧侶たちは、「修行や儀式を後回しにして、武芸に専念していた」のだから、僧侶らしさなど何もない。これでは単なる粗暴者の溜まり場だ。

 一緒に殺戮された俗人も「美女」や「稚児」が多く混ざっており、性対象として囲っていたと思われる。そうすると、この時の比叡山はすでに荒れ果てた廃墟で、行くあてのない荒れくれ僧兵たちが梁山泊のように集まり、比較的身分の高い僧侶を指導者に仰いでいたわけである。

 これでは比叡山という聖地跡地に陣取り、僧侶を名乗るだけの武装勢力も同然だ。

 信長が敵視したのは、仏僧というより、不可侵の権威を盾にして、やりたい放題に振る舞っている無法者だったと言えよう。

信長が位牌に抹香を投げたのはなぜ?

 しかし信長は比叡山だけを敵視したわけではない。信長は、若き頃より僧侶としての責任を果たさない者たちを心底から嫌悪していた。

 これを象徴する事件がある。

 天文21年(1552)3月上旬、長らく病に臥せっていた織田信長の父・織田信秀が亡くなった。回復の祈祷に携わっていた僧侶たちは、不安に思う若き信長に「必ず回復しますよ」と言っていたが、その言葉は嘘になってしまった。

 素行の悪さで有名な信長は、葬儀の場で信秀の位牌に抹香を投げつける。

 その心中は不明だが、“ここで俺を置いて逝くのか”という無念と、信秀の回復祈願に失敗した僧侶への憤怒が入り混じっていたように思う。

 このあと信長は、信秀の回復を保証すると公言していた僧侶たちを「ある寺院に監禁し、外から戸を締め、貴僧らは父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につき、さらに念を入れて偶像に祈るがよい、と言い、そして彼らを外から包囲した後、彼らのうち数人を射殺せしめた」という(ルイス・フロイス『日本史』)。

 信長は身内の不幸に弱かったようだ。