小田氏治像
(乃至政彦:歴史家)
小田氏治は、大晦日の連歌会中に夜襲を受け、小田城を失った──彼の「最弱伝説」を飾るこのエピソードは本当なのか? 史料を追うと、事件そのものが成立しないことが見えてくる。
シンクロナスにて「戦国の不死鳥・小田氏治」を連載中の乃至政彦氏が、年末に語られがちな逸話の真相に迫る。(JBpress)
小田氏治と除夜の連歌会
元亀3年(1572)大晦日、常陸国の小田城御殿で連歌会が行われたという。
中央奥に小田氏治が座り、左右に正室と側室が座していた。
諸城の城主と近臣一同が参席する恒例行事であったというから、毎年、年末が近づくと大勢の小田家臣が集まっていたわけである。
だが、この時、大変な事件が起きた。
氏治と敵対していた太田道誉(資正)・梶原政景父子が、その日を狙って夜襲を仕掛けて、立ちどころにして小田城を制圧。
過去に小田城を何度も奪われてきた氏治は、ここでもあっさりと城を失ってしまったのである。
これは氏治の最弱伝説を支える逸話として有名な失陥事件だが、実際のところはどうなのだろうか?
本当にあったことなのだろうか?
時期的に大晦日が近づいていることもあるので、今回はこの小田城連歌会事件の真相を追究してみよう。