小田氏治の連歌会エピソードはなぜ生まれた?
ここに、小田氏治の大晦日連歌会事件は、事実ではないと言っていいだろう。
最後に、あまり強くは言えないのだが、なぜこのエピソードが生まれたかについて、ひとつの推測を述べさせてもらいたい。
小田氏治贔屓の軍記『小田軍記』に、この事件のモデルになったかもしれないエピソードがある。
元亀4年・天正元年(1573)9月末、すでに小田城を実効支配していた太田道誉と梶原政景が、佐竹義重と連携して小田方の藤澤城および土浦城を奪い取ろうとする逸話だ。
史実として氏治は当時、木田余城を本拠としていた。
藤澤城に攻めてきた太田父子と激戦する小田軍。
しかし、決着はすぐにはつかなかった。
10月下旬、日中の野戦を終えた小田氏治が南面に向かい、紙と硯を取り寄せさせる。
そこで和歌を作ったのだ。
「浮世には かくもあるへきもの成に ことわりしらぬ泪(=涙)なりけり」
戦いの死傷者に思いを巡らせ、世の中には、あるべき定めを知らぬことで、悲劇が生まれるということを述べたものだろうか。
そして、敵を夜襲する計画を打ち立てて、これを実行。梶原政景を追い払ったというのである。
このエピソードは、元亀後期の勢力図に合致しており、連歌の会の逸話よりも信頼度は高いと言える。
明確な証拠を上げられないのは残念だが、近世初期にはこちらのエピソードが先行して普及しており、太田贔屓の軍記作者がこの惨敗イメージを打ち消すために、新しいエピソードを新設した可能性を検討するべきかもしれない。
もしも、そうだとしたら、その試みは見事に成功したと言えるだろう。
最後に述べておきたい。
小田城で大晦日に、小田氏治の連歌会が毎年行われていた形跡はない。
小田城はその三年前の手這坂合戦で、すでに道誉たちに奪われていたのである。
だから、ここへ太田道誉が夜襲をかけて小田城を制圧した事実などありえないのである。
【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。