当時の小田城は太田家が管理していた
そもそも元亀3年(1572)12月30日(当時の大晦日)、小田城はすでに小田氏治のものではなくなっていた。
それより前に、太田道誉に攻め取られていたからである。管理していたのは、氏治ではなく、太田道誉と梶原政景だったのだ。
だから、氏治が連歌の会を催して小田城を奪われる事件自体が起こり得ない。
事件の年次が違っているのではないかと調べてみても、大晦日に小田城が失陥した事件を、同時代の史料に認められない。別年に、太田道誉らが大晦日に小田城を急襲した形跡も見つけられない。
万が一、このような事件が、どこかのタイミングで実際にあったと仮定しても、小田氏治が油断していた、弱かったと言うことはできないのではないかと考える。
大晦日や葬儀などの時期を狙えば、戦果を挙げるのは簡単だ。しかし、それはそんなことをする武士が武士の倫理観を逸脱した行動をした結果のこと。
例えば、本能寺の変を起こした武将を「この後、不運にも敗死するが、信長を倒すという第一目標を達成した大勝利の優れた判断だ。それにひきかえ信長は、アホではないか」という評価をするだろうか。
これと同じで、非常の攻撃に決定的敗北した者を見下すのは、適切とは思われない。
太田道誉が名将であることは、彼が不条理な苦労を重ねてきて、実利のために非情な判断を下すことに抵抗が薄くなったところもあろう。だが、彼が氏治を平時に襲うなどという卑怯なことをした事実はないのである。