石田三成はなぜ処刑されたのか

──西軍の決起を主導したのは毛利輝元と増田長盛であるにもかかわらず、なぜ、石田三成、毛利輝元の家臣である瑶甫恵瓊(ようほえけい)、小西行長が「首謀者」として処刑されたのでしょうか。

高橋:当時の村社会では「解死人(げしにん)」という制度がありました。解死人は、事件が生じ、犯人が不明のときに犯人の代わりとして差し出される存在です。

 事件が未解決の場合、事件が発生した領地の支配者の面目は丸つぶれになります。したがって、ひとまず解死人を犯人として差し出せば、支配者の面目が立ちます。まれに解死人が処刑されることもありますが、たいていの場合はお叱りを受けておしまいです。

 当時は真犯人を見つけることよりも、支配者の面目を立てることが重要視されていました。そういう背景から、西軍決起に関しても誰かしら責任者が処刑されれば、それで十分だったのです。

 毛利家に関しては「すべて瑶甫恵瓊が勝手にやったこと」とし、首謀者を石田三成、それに呼応した小西行長を処罰することで、丸くおさめたのだと思います。

家康に天下取りの野心はなかった

──本書の視点から見て、関ヶ原は日本史においてどのような意味を持つ事件だったのでしょう。

高橋:近世幕藩国家の成立、つまり近代国家の成立の起点であったと私は考えています。

 それまで豊臣政権に従っていた諸将が徳川家康に随順するようになった時期は、関ヶ原の合戦後です。家康自身が、諸侯への領地当てがいを始めたのも、関ヶ原の合戦以降のことです。

 ただ、関ヶ原合戦以降も家康は領地当てがい状を出してはいません。豊臣秀頼が成人後に正式に出すものと考えていたのでしょう。したがって、家康自身が積極的に天下を取ろうとした雰囲気が、関ヶ原の合戦の前も後も、私には感じられません。

 それでも、関ヶ原の合戦は徳川家が支配する幕藩国家の幕開けであると言えると思います。

高橋 陽介(たかはし・ようすけ)
歴史研究家
1969年、静岡県生まれ。東海古城研究会、佐賀戦国研究会、織豊期研究会、静岡県地域史研究会、関ヶ原研究会に所属。著書に『関ヶ原合戦の経緯』(いずれもブイツーソリューション)、『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』(乃至政彦氏との共著)『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(ともに河出書房新社)などがある。

関 瑶子(せき・ようこ)
早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程修了。素材メーカーの研究開発部門・営業企画部門、市場調査会社、外資系コンサルティング会社を経て独立。YouTubeチャンネル「著者が語る」の運営に参画中。