江戸城大手門 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

徳川家という「家」にすぎない「幕府」

 大河ドラマ『べらぼう』では、幕府の老中である田沼意次・松平武元(たけちか)らが政策について意見を交わす場面が、たびたび登場する。ご存じのように彼ら老中とは、幕府の政策を実質的に動かしていた「閣僚」のような人たちだ。

 この老中の職に就くことができたのは譜代大名といわれる人たちで、石高としては5万石〜15万石クラスが多かった。江戸時代の大名としては中堅どころか、中の下くらいである。ではなぜ、老中は5万石〜15万石クラスの譜代大名にかぎられるのだろう?

福山城に立つ阿部正弘像。福山10万石の藩主だった正弘は老中として幕末の難局に対応した

 皆さんは、江戸時代の大名は親藩・譜代・外様の三タイプに分かれる、と学校で習い、そう覚えているはずである。親藩とは、徳川将軍家の親戚筋にあたる家。譜代は、もともと徳川家の家臣だった家。外様は、徳川家康が覇権を握った後に従った者たちを指す。

 これはこれで間違いではないのだが、こうした用語暗記方式の考え方で済ませてしまうと、幕藩体制の原理が見えにくくなってしまう。というのも、われわれが「幕府」と呼んでいる組織の実態は、徳川家という「家」にすぎず、近代的な政府や会社組織とは、基本原理がまったく異なっているからだ。

 もともと戦国時代には、各地に興った戦国大名たちが滅ぼしたり、滅ぼされたりの勝ち抜き合戦を繰り返して、徳川家康が最終的な勝者となった。そうして家康が圧倒的な力で他の大名たちの頭を押さえつけて、「文句がある奴は一歩前へ」といって、本当に一歩前へ出たらたちどころに叩きつぶされるから、みんな家康の言うことをきく。

今治城に立つ藤堂高虎像。高虎は家康の信頼が篤かったが、外様大名である藤堂家から老中が出ることはなかった

 この力に「征夷大将軍」というラベルがついて、家康から嫡男の秀忠へ、家光へ……と代々受け継がれて、徳川家が他の大名家を従えているのが、幕藩体制の基本原理だ。そうした幕府が、イコール徳川家であるなら、徳川家の実務を切り回すのは徳川家の番頭さんたちである。この番頭さん・手代さんにあたるのが、譜代大名なのである。

 したがって、外様大名が老中になれないのは当然で、別に意地悪をして仲間に入れてあげないわけではない。どんなに経済力があっても政治家として有能でも、外様大名は徳川家の関係者ではない「ヨソの人」だから、徳川家の意志決定や実務に携われるはずがない。

 御三家を始めとした親藩大名が老中にならないのも同様で、親藩大名とは早い話、徳川家の分家だからだ。将軍家が徳川家の本家、親藩は分家だから、本家=幕府の意志決定や実務は本家の番頭さんたちの仕事であって、分家の当主が番頭さんと同じ立場になるわけがない。このあたりの原理は、「老中」を「家老」と読み替えると腑に落ちるだろう。

和歌山城下に立つ徳川吉宗像。紀州徳川家第5代当主を嗣いだ吉宗は後に第8代将軍となった

 ちなみに、『べらぼう』で石坂浩二が演じている松平武元は館林松平家の生まれで、6代将軍家宣(いえのぶ)の孫にあたる人物だから、血筋からいえば本来は親藩大名である。ただし、館林松平家は兄が嗣いで、武元は常陸府中藩松平家に養子に出され、そちらの当主になっていたから、譜代大名ワクとして老中になったのだ。

 のちに老中となる松平定信も、もともとは御三卿の一つである田安家の生まれで、8代将軍吉宗の孫であるが、長子でなかったので白河藩松平家に養子に出され、白河藩主として老中の地位に就くことになる。

白河小峰城。老中として寛政の改革を行うことになる松平定信は白河藩松平家(11万石)の養子であった

 武元や定信はタダの譜代大名家ではなく、同じ松平姓でも血統のよい人物として、周囲から一目置かれる立場だったわけだ。こうしたことを踏まえて、幕府内部での権力闘争を見ていると、『べらぼう』もより面白く鑑賞できるだろう。