江戸城の富士見櫓 撮影/西股 総生
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(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、「江戸時代の江戸幕府を知る」最終回として、大河ドラマ『べらぼう』の最終回でのとあるシーンについての意義を考察します。

最終回としての意義

 大河ドラマ『べらぼう』が12月14日に最終回を迎えた。いつもより15分長い枠にもろもろのネタを盛り込んで、『べらぼう』ファン・ネット界隈も大いに沸いたようだが、筆者がとりわけ興味深かったのは、①本居宣長が登場したこと、②耕書堂の本が地方に普及している様子が描かれたこと、③蔦重が九郎助稲荷に100年後の髷はどうなっているか問うたこと、の3点である。

 蔦屋耕書堂が本居宣長の本を手がけたという史実自体は、セリフやナレーションでも説明できる。面白いのは、宣長をわざわざ(ワンシーンだけ)キャラとして登場させたこと。併せて松坂から帰りの道中で、地方への本の普及をシーンとして描いた点が、このドラマの最終回として意義深い。田沼意次・平賀源内・松平定信・蔦屋重三郎といった、ドラマの登場人物たちの事績が、次の時代を創っていったことを暗示しているからである。

田沼政治~寛政年間は幕末維新を準備した時代と評されることが多い

 まず、田沼意次の開明的・重商主義的政治路線と、松平定信の保守的・農本主義的路線との対立は、幕末における開国思想と、攘夷思想との源流となっていった。『べらぼう』で描かれた、蝦夷地政策についての両者のスタンスの違いを思い出してほしい。

 ただし、田沼路線と定信路線が思潮として世の中を動かすようになったのは、多くの人々が学問を志し、議論を重ねていったからだ。そうした学問と議論を支えていったのが出版文化の隆盛であり、地方への波及に他ならなかった。

 もともと松平定信が権力者へと押し上げられていった背景には、諸藩の財政が逼迫し、飢饉や一揆・打ち毀しが頻発する、という社会危機があった。危機的状況に直面した大名たちは、世の中をどう治めてゆくかという経世論を求め、定信の白河藩政は経世のモデルケースと評価された。だからこそ、多くの譜代大名が定信を老中に担いだ。こうした経世論の需要は、各地に藩校設立ブームをもたらし、多くの情報や書物が行きかうことによって、学問と議論の場が育まれていったのである。

白河小峰城の三階櫓は松平定信が作成させた詳細な資料から復元された

 一方、民間レベルでは「日本というこの国のかたち」を改めて考えてみよう、という動きが出てくる。この思潮が賀茂真淵や本居宣長によって国学として体系化され、やがて尊皇思想を生んでいった。

 そこへ持ってきての「100年後の髷」という問いである。この問いは、一見すると100年後におけるファッションのトレンド、という興味にすぎないように思える。

 しかし……蔦重が没したのは寛政9年(1797)だから、100年後といえば明治30年(1897)。ラフカディオ・ハーンが松江に赴任したのは明治23年(1890)であるから、100年後の髷を知りたかったら続きは『ばけばけ』を見て下さい、と九郎助稲荷はいいたかったのかもしれない(笑)。

松江の武家屋敷。左手は小泉八雲旧居。『べらぼう』の続きは『ばけばけ』で?

 それはまあ冗談として、蔦重と『べらぼう』の登場人物たちが幕末維新の種を蒔いたことは間違いない。だとしたら、「100年後の髷」という問いはなかなか意味深である。

 何より最終回を、一橋治済の荒唐無稽な死から始めて、蔦重の冗談みたいな死で締めくくったセンスが秀逸だ。われわれはここで、ドラマのサブタイトルが「蔦重栄華之夢噺」であったことを再認識させられる。

千代田区にある一橋邸跡。史実では治済はここにいたことになっている

 『べらぼう』は端から、黄表紙テイスト・戯作ワールドの時代エンタテインメントであったのだ。最後に一橋治済追放と写楽の正体という大風呂敷を広げた見せた、その心意気たるやあっぱれ!

 おっと、あまり論評めいたことを書いていると、蔦重のイケボが聞こえてきそうだ。

「旦那、そいつぁ野暮ってもんでしょう」

*9月22日掲載「「開国か攘夷か」という思潮の源流を作ったのは田沼意次と松平定信だった…相反する二人が促した幕末への下準備」も併せてお読み下さい。