江戸城 撮影/西股 総生(以下同)
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(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、田沼意次と松平定信についてご紹介します。

「開国vs.攘夷」議論はどこから出てきたのか

 外国人を排斥すべきか? それとも積極的に受けいれるべきか? 

 といっても、先頃の参院選の話ではない。今から170年ほど前の幕末にも、そんな議論が日本を二分していた。「開国」と「攘夷」である。この「開国vs.攘夷」という議論が、どこから出てきたのかを遡ってみると、幕末から1世紀ばかり前、田沼時代〜寛政の改革の時代に行き着く。要するに大河ドラマ『べうぼう』の時代である。

 江戸時代の日本は、特定の国以外とは通交をしない「鎖国」状態を長らく続けてきたが、幕府はオランダからの情報などに基づいて、海外の情勢を相応に認識していた。ところが、18世紀ともなると、欧米列強のアジア進出は見過ごせなくなってくる。

江戸城桜田門。田沼意次は外国に門戸を開いて実利を得ることを考えた

 わけても、ロシアの勢力が千島・樺太方面に南下してきていることを知った田沼意次は、対応を考えることとなった。すなわち、蝦夷地を幕府直轄とし、入植者を送り込んで開拓を進めることによって日本の領土とし、ロシアとは交易を行って利を得よう、という大胆な北方政策を構想したのだ。

 もともと、市場の原理を重視して経済を発展させる考え方の強かった意次が、対外政策でも交易を積極的に進めようとするのは当然だった。これが「開国」の源流となる。

 ところが、田沼意次を追い落とした松平定信は、農本主義への回帰を目ざそうとした。凶作や飢饉によって米価が急騰し、打ち壊しや一揆が頻発する状況を打開するためには、農村の立て直しから出発する必要がある、と考えたからだ。これまで老中・若年寄を輩出してきた譜代の小大名たちも、同じ考え方に立って定信を支持していた。

江東区の霊岸寺にある松平定信の墓所

 老中首座となった定信は、支持派の譜代大名たちを幕閣に取り立てて実権を握ると、幕府の賄賂体質に大ナタをふるい始めた。しかも、もともと田安家の生まれだったにもかかわらず、白河松平家に養子に出されて将軍継嗣候補の資格を失っていた定信は、意次に対し深い恨みを抱いていた。

 このため定信は、幕府の政策に残っていた「田沼カラー」を徹底的に排除してゆく。田沼時代に計画されていた、印旛沼の干拓計画も中止となった。農本主義政策を重視するのなら、手続きを見直してでも干拓は進めた方がよさそうなものではあるのだが……。

印旛沼。田沼意次が計画した干拓は寛政の改革によって中止された

 当然、蝦夷地の開発計画も没となるし、外国との交易などもってのほかだ。ここで定信が持ち出したのが「鎖国は祖法」というロジックだった。幕末ドラマでしばしば耳にする「鎖国は祖法」を、最初に唱えたのは松平定信なのである。もともと「鎖国」は成りゆきでたどり着いた体制だったが、それを「祖法」と表現したところに「将軍家の血統を引く者」という、定信の強い自意識がうかがえる。

 また、自由主義的な「田沼カラー」を嫌った定信は、出版文化の抑圧にも乗り出す。とはいえ、各地で藩校が設立されて人々が向学心を持つことまでは、抑圧しきれない。

伊豆韮山の反射炉。幕臣の江川英竜が反射炉を築いたのは意次失脚から70年後のことだ

 そうしている間にも、西欧列強が極東に進出しているという情報は入ってくるし、日本近海にも外国船は出没するようになってくる。学問を志す人々の間で、国防・海防をどうするかという議論が起きてくるのは、止めようがなかった。

 一方で、田沼時代〜寛政年間には「この国のかたち」を考える学問としての国学が、全国的に普及してゆく。すでに水戸徳川家では、徳川光圀による『大日本史』の編纂事業を通じて「水戸学」と呼ばれる思潮が形成されていた。これら国学や水戸学が、「尊皇」思想のベースとなってゆく。

萩の松下村塾。吉田松陰は水戸学の影響を強く受けた尊皇思想家だった

 となれば、多くの人が学問を志し議論を重ねる中で、「尊皇」と「鎖国は祖法」のロジックが結びついて、「尊皇攘夷」となるのは当然だった。

 本人たちは知るべくもないが、田沼意次と松平定信の二人は、結果として幕末という時代を準備することとなったのだ。

幕末に大坂湾防衛のため幕府が築いた西宮砲台

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