土浦城 撮影/西股 総生(以下同)
目次

(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回の名城シリーズは、実は非常に貴重な、茨城県の土浦城を紹介します。

恐竜の生き残りみたいな城

 茨城県の土浦城は、関東地方の典型的な近世城郭として、日本城郭協会の「続日本100名城」に選定されているけれど、一般にはさほど人気のある城とはいえない。この城には天守も、壮大な高石垣もないからだ。

 本丸と、それをとりまく二ノ丸の一部・御用米曲輪が水濠と土塁に囲まれて残っているとはいえ、土塁が低いから城らしい迫力に乏しい。城門が2棟現存しているほか、隅櫓が2棟復元されているものの、さほど写真映えがするわけではない。

土浦城本丸北面の水濠。濠の外側はバス通りとなっている

 けれども、筆者は断言する。土浦城は非常に貴重な城だ。もし、あなたが城に興味があるのなら、日本の城のことを知りたいと思っているのなら、ぜひ一度は足を運んで、じっくり味わって眺めるべき城である。では、この城の何がそんなに、価値があるのか?

 もともと、関東地方は土の城の王国だった。いや、この言い方は不正確だ。戦国時代には日本中で土の城が繁栄していたからだ。あたかも、中生代に恐竜が栄えていたように。ところが、戦国時代の後半に近畿地方の一角で生まれた、高石垣と天守を備えたタイプの城を織田・豊臣勢力が採用したことから、このスタイル(織豊系城郭)が各地に広まって近世城郭となった。

本丸虎口と復元された隅櫓。虎口は枡形となって隅櫓から制圧される

 いや、この言い方も本当は正しくない。近世城郭の実態を見てみると、関東・甲信越・東北と九州地方の大半では、戦国城郭の系譜を引く土の城が主流なのである。つまり、われわれが普通「近世城郭」と認識しているタイプは、正しくは「織豊系近世城郭」と呼ぶべきであって、それらは近世城郭の半分かせいぜい2/3くらいの勢力でしかないのだ。

 そして江戸時代の関東こそは、土造りの非織豊系平城の王国であった。川越城・岩槻城・忍城・宇都宮城・前橋城・高崎城などで、これらの城には老中・若年寄クラスの譜代大名が交替で封じられた。

城米曲輪に移築現存する前川口門。江戸後期の建物だが高麗門形式である

 ところが、これらの土の平城はいずれも明治以降、都市化の波に呑まれて壊滅的に失われてしまった。川越城は本丸御殿のごく一部が残っていることをもって日本城郭協会「日本100名城」に選定されてはいるものの、城郭遺構としては土塁のごく一部が残っているだけで、城らしい景観は求むべくもない。

 そこへ行くと、土浦城は本丸とその周囲が奇跡的に残っている。江戸時代の関東地方に栄えた「土の平城」の景観を、どうにか偲ぶことができるのは、いまや土浦城だけなのである。しかも、現存の櫓門をともなって。恐竜の生き残りみたいな城なのである。

本丸に現存する貴重な櫓門。土塁造りの東日本の城では渡櫓門形式ではなく、このような楼門形式が多かった

 土浦城は、霞ヶ浦に注ぐ桜川の自然堤防上に築かれた城だ。江戸時代の絵図や、それらを基にした復元図で見ると、本丸を中心に多数の曲輪が何重にも取り巻いていて、なかなか広大な平城だったことがわかる。こうした地形では、高さを恃みとして守ることができないから、広さで守るしかない。そこで水濠を幾重にも廻らせて、広大な「水濠の迷路」を造りあげるのだ。ぺったんこで見映えがしないからといって、決して侮れないのだ。

城米曲輪の土塁上から本丸方向を眺める。本丸と城米曲輪の間にほとんど高低差がないことがわかる

 かろうじて残っている本丸・城米曲輪・二ノ丸の一部をじっくり歩きながら、この「水堀の迷路」のイメージを頭の中に立ち上げる。そうしたら、市街地の中を歩き回ってみよう。現況地図と城絵図を重ね合わせた図を、あらかじめ入手しておくとよい。市街地のあちこちに、説明板や標注が残っているから、「あ、この道は濠跡なんだ」「この範囲が○○曲輪か」と確認しながら、広大な平城の情景を妄想してみる。

市街地の中に立つ「搦手門跡」の標柱

 ほら、楽しいでしょう? カチカチと組み上げられた石垣造りの城を歩くのとは、また違った楽しさを味わうことができる。そんな楽しさを経験してしまうと、タダの原っぱみたいな本丸も、低い土塁も、垢抜けないデザインの櫓門も、いとおしくかけがえのない物に思えてくるのである。

本丸の土塁と濠。一見地味だが実は貴重な景観なのだ