江戸城の富士見櫓 撮影/西股 総生

(歴史ライター:西股 総生)

「泰平の世の実現」と世代との関係

 1603年(慶長8)に徳川家康が征夷大将軍となって成立した江戸幕府は、長きにわたった戦国乱世を終わらせて、泰平の世をもたらした。家康がなぜ覇権を手にすることができたか、という議論は、これまでにも様々に試みられてきたが、本稿では少し違った観点から、「泰平の世はなぜ実現したのか」を考えてみたい。

 まず、初代家康から綱吉までの5代の将軍について、生年―将軍就任年―没年を一覧にしてみた。A〜Eに示したのは、この間に起きた大きな事件である。

1.家康 1542(天文11)―1603(慶長8)―1616(元和2)
2.秀忠  1579(天正7)―1605(慶長10)―1632(寛永9)
 A.関ヶ原合戦 1600(慶長5)
3.家光  1604(慶長9)―1623(元和9)―1651(慶安4)
 B.大坂夏の陣 1615(慶長20)
 C.島原の乱   1637〜38(寛永14〜15)
4.家綱  1641(寛永18)―1651(慶安4)―1680(延宝8)
 D.由井正雪の乱 1651(慶安4) ※正雪は1605年(慶長10)生
 E.明暦の大火 1657(明暦3)
5.綱吉  1646(正保3)―1680(延宝8)―1709(宝永6)

甲府駅前の武田信玄像。家康が生まれた天文11年、信玄は諏訪地方を併呑した

 一般に歴史を考える場合、おおよそ20年を1世代と見なす。家康が将軍になってから、5代目の綱吉が没するまで106年であるから、この原則がきれいに当てはまっていることがわかる。ここで、上記の一覧から見えてくるのは、「泰平の世の実現」とジェネレーションとの関係だ。 

 まず、家康が生まれた1542年(天文11)は種子島に火縄銃が伝来する前年であるから、戦国真っ盛りといってよい。また、秀忠が生まれた1579年(天正7)といえば、織田信長が天下統一に驀進していた頃である。

岐阜駅前に立つ織田信長像。秀忠が生まれたのは信長の絶頂期だった

 3代家光は、生まれながらにして将軍の座を約束されていたといわれるが、大坂の陣が起きたのは彼が11歳の時である。周囲には戦国乱世を生き抜いてきたベテランたちも多かっただろう。その家光は、30代半ばで将軍として島原の乱に対処することになる。

 島原の乱では、廃城になっていた原城に立て籠もった一揆勢が頑強に抗戦し、幕府側は大軍で城を囲みながらも攻めあぐねた。一揆勢がかくも善戦できたのは、関ヶ原や大坂の陣の時代に実戦を経験していた地侍の生き残りが、戦闘を主導していたからである。

現在の大坂城は、豊臣家の滅亡後に徳川幕府が全面的に再構築したものである

 対するに、4代家綱が生まれたのは島原の乱の後であり、大坂の陣からもすでに四半世紀が過ぎていた。1651年(慶安4)には、家光の死を契機として由井正雪が争乱を企てたとされるが、未然に鎮定されている。この時、家綱は10歳だから、家光が大坂の陣に遭遇したのと同じ年頃ということになる。

 5代将軍となる綱吉(家綱の弟)が生まれたのは1646年(正保3)だから、由井正雪の乱はおそらく本人の記憶にはないだろう。代わりに彼は11歳で明暦の大火に遭遇している。この大火では、江戸城や周辺は丸焼けになっているから、その惨状は綱吉少年の心にも深く刻まれたはずである。つまり綱吉にとっては、戦争ではなく都市の治安問題が政治的な原体験となっていたわけだ。

江戸城天守台。明暦の大火で天守は焼失し、天守台の石垣は築かれたものの天守は再建されなかった