「戦争を知らない世代」が社会の中心になってゆく

肥前名護屋城の崩れた石垣

 3代家光から5代綱吉までの間に起きたことを、もう少し補足してみよう。島原の乱が起きる前年の1636年(寛永13)には、伊達政宗が69歳で没している。また、綱吉が生まれる前年の1645年(正保2)には、宮本武蔵が71歳で世を去った。武蔵は、若い頃に足軽として関ヶ原を経験し、老いてからも浪人として島原の乱に参戦している。

 政宗も武蔵も、この時代としては長生きをした方といってよい。島原の乱から1640年代、元号でいうなら寛永の後半から正保の頃というのは、戦国合戦を実際に経験してきた世代の生き残りたちが、天寿を全うしてゆく時期だったのである。

巌流島に建つ宮本武蔵と佐々木小次郎の像。決闘が行われたのは1612年(慶長17)のこと

 島原の乱を境として、日本国内で大規模な戦乱が起きなくなる現象は、幕藩体制の確立、幕府による統制の徹底、といった観点で語られることが多い。けれどもその背景には、実戦を経験した世代が世を去り、「戦争を知らない世代」が社会の中心になってゆく、という現象もあったことがわかる。

 幕府転覆を企てたとされる由井正雪にしても、1605年(慶長10)の生まれであるから、家光と同世代だ。戦国時代の体験談を大人たちから聞いて育ちはしただろうが、正雪本人には実戦経験はなかっただろう。そして正雪以降、天一坊のように将軍御落胤を騙る者は現れても、幕府転覆のための武力蜂起を企てる者は、もはや現れなくなる。

江戸城本丸の西側の高石垣

 もともと戦国時代というのは、目的を達するためには武力を用いる時代だったから、領土・財産でも権益でも、欲しいものがあれば力ずくで奪うのが当たり前。酒に酔った武士が喧嘩をしても、村同士が農地の境や水利をめぐって争う場合でも、たちどころに槍や刀が出てくる。

 そういう時代を生きてきた人たちは、何かあったら反射的に刀の柄に手がかかって、心理的にも戦闘モードに入る。いったん実力行使となったら、どう行動すればよいかは、考えなくても体が覚えている。

戦国時代には考えるより先に手が動くタイプの人が多かった。写真は桑名城の本多忠勝像

 1630年代(寛永年間)くらいまでは、そういう価値観・行動原理をもった人たちがまだ残っていて、組織やコミュニティのベテランとして頼りにされていた。ところが、1650年代以降になると、もはや「戦争を知らない世代」が社会を動かすようになって、武力によって問題を解決しよう、という価値観・行動原理が失われてゆく。

 仮に、20歳で島原の乱に参加した人がいたとすると、綱吉が5代将軍となった1680年(延宝8)には62歳となっているから、当時であればお迎え待ち年代といってよい。綱吉治世の代名詞ともいえる元禄年間(1688〜1704)ともなれば、島原の乱を経験した世代すらも死に絶える。悪名高い「生類憐れみの令」も、本当はそうした世相を背景として理解すべき政策なのである。

新発田城に建つ中山(堀部)安兵衛の像。安兵衛のような剣豪が尊ばれたのは、侍が実戦経験を失ったからこそでもある

 ちなみに今年(2025年)は、第2次大戦が終わった1945年から数えて80年にあたる。終戦を大坂夏の陣に重ねるなら、80年後にあたるのは1695年=元禄8年となる。綱吉が金銀貨の改鋳策を打ち出したり、中野に犬小屋を建てたりした年だ。元禄の若者にとっての関ヶ原や大坂の陣は、令和の若者にとってのシベリア出兵や第2次大戦に等しかったのだろう。

「泰平の世」が実現し維持されてゆくために必要なのは、政策や制度・体制といったトップダウンの要素だけではなかった。人々の価値観や行動原理の変容といったボトムアップの要素も重要であり、そのためには世代交代という時間のかかる手続きが不可欠だったのだ。「世の中の変化」を考えるときに、頭に入れておきたいことである。

2022年11月の国際観艦式に集まった各国海軍の艦艇。さいわい平和そうな光景だ