撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、「大政」の概念と田沼時代に登場した国学について、ご紹介します。
「大政」は徳川家が朝廷から預かったもの
徳川幕府(江戸幕府)は、1600年(慶長5)に関ヶ原合戦に勝利した徳川家康が、1603年(同8)に征夷大将軍に任じられたことに始まり、1867年(慶応3)に慶喜が大政奉還を行ったことによって終焉を迎えた。
この説明に違和感を覚える人は、ほとんどいないだろう。けれども、よくよく考えてみると、この説明はおかしい。始まりと終わりが非対称になっているのである。
江戸城本丸の石垣
家康は、戦国の最終決戦に勝利し全国の大名を切り従える立場となったことによって、武家を指揮する最高官としての征夷大将軍に任じられた。つまり、自力で天下人のポジションを勝ち取ったわけだ。しかし、最後の慶喜は「大政」を朝廷に「奉還」するという形式を踏んでいる。そもそも預かっていないものを返上しているわけである。
けれども、「大政」は徳川家が朝廷から預かったもの、という共通認識が人々の間で共有されていなければ、大政奉還は決定的な意味をもちえない。そうでなければ、「王政復古の大号令」も新政府樹立宣言として意味をもたなかったはずなのだ。
京都御所の御学問所。ここで「王政復古の大号令」が発せられた
では、「大政」は徳川家が朝廷から預かったもの、という認識が人々の間に広まったのはいつなのかというと、ずばり大河ドラマ『べらぼう』で描かれている、田沼時代〜寛政の改革の時期なのである。どういうことか、順を追って説明しよう。
江戸近郊農村の面影を伝える江戸川区の一之江名主屋敷
そもそも幕藩体制とは、徳川家が武力で全国の大名たちの頭を押さえつけ、「文句のある者は一歩前へ」方式で天下に君臨していたものである。実際、家康・秀忠・家光の時代には、本当に一歩前に出た者や、いかにも出そうな者、何かしら落ち度のあった者たちは、容赦なく潰されていた。
ところが、そうして大名家をどしどし取り潰したおかげで、巷には浪人が増えて社会不安を引き起こすこととなった。そこで幕府は、よほどの落ち度がないかぎり大名家を潰さない方向へと、政策を転換することになった。それに、武力で頭を押さえつけるといっても、もう戦争が起きそうもない時代になっているのである。
福島正則は幕府に無断で広島城を改修した咎を問われて所領を没収された
代わって、徳川家が天下を治める正当性を示すために、5代将軍綱吉が持ち出したのが「徳治主義」だった。徳川将軍家が、高い徳をもって天下万民を教え導く、というロジックである。悪名高い生類憐れみの令は徳治主義のストレートな発露だったし、白刃をふるってトラブルを解決する行為が徳治主義の理念に反するからこそ、浅野内匠頭や赤穂浪士は切腹に処せられたのだ。
品川区の泉岳寺にある浅野内匠頭長矩の墓所。今も線香が絶えない
しかし、綱吉の徳治主義はあまりに理念的にすぎ、現実の政策に落とし込むに際して厳罰主義をもって臨んだために、人々の反感を買って続かなかった。後に残ったのは、徳川将軍家が実際に天下を治めているから誰も逆らわない、という現状追認である。
そうなればなったで、「そもそも徳川家が天下を治めていることの正当性は何なのか?」という原理原則論的な疑問が、人々の間で頭をもたげてくる。ここに登場したのが「国学」という学問だ。
国学とは一言で説明するなら、「この国のかたち」を考えようという思想運動である。そして、国学が賀茂真淵や本居宣長によって体系化・理論化されたのが、まさに『べらぼう』の時代だったのだ。
三重県松坂の商家。この地に生まれた本居宣長は国学を体系化した
*次回は8月22日に「田沼意次が播いた意外な「種」…経済の発展と出版文化の隆盛が生み出した、幕藩体制への諸刃の剣とは」を公開します
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