撮影/西股 総生(以下同)
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、田沼意次につきまとう賄賂政治家というイメージについて、真相に迫ります。
贈り物は当然の礼儀
田沼意次という人物には、どうしても賄賂政治家のイメージがつきまとう。こうしたイメージが成立した理由の一つは、意次を追い落として寛政の改革を断行した松平定信が、田沼時代の政策を軒並み否定して徹底的なネガティブキャンペーンを行ったことにある。ただし、それだけではなく、田沼時代に幕府役人の間で賄賂が横行したのもまた、間違いない事実であった。
とはいえ、では意次本人が賄賂政治の頂点に君臨していたのか、つまり、多額の賄賂を受け取る見返りに政策や人事をねじ曲げるタイプの政治家だったのかというと、そうとはいえないのだ。
駒込の勝林寺にある田沼意次の墓所
いや、少々歯切れの悪い書き方をして申し訳ないのだが、この件はイエスかノーかで両断できる問題ではないのだ。どういうことか以下、順を追って説明してゆこう。
まず、前提として知っておいてほしいのは、武家社会はそもそも贈答儀礼が盛んであったことだ。封建制とはもともとは親分-子分の関係に基づくものだし、武士とは身分や序列、体面にこだわる自己顕示欲の強い生き物でもある。
武士とはメンツにこだわる自己顕示欲の強い人種だ。写真は日比谷公園内にある伊達政宗終焉地
自分の領地は取れ高が大きいとか、こんな珍しい品を手に入れられるだとか、センスの良さでは誰にも負けないとか、そんなことを誇示したがる人たちが、集まって組織を作り権力を行使しているのだ。贈答儀礼が盛んなのも道理といえよう。
したがって、上役や仕事で世話になる人、頼み事をする相手に気の利いた(金のかかった)贈り物をするのは、むしろ当然の礼儀である。であるなら、将軍の信頼を得て出世しそうな人物には、取りあえず気の利いた贈り物をしておく。その人物が実際に老中になって、大きな発言力をもつとなったら、大名や旗本らはこぞって付け届けを持ってくる。
武家社会では贈答儀礼が重要な意味をもった。写真は両国駅近くにある吉良上野介屋敷跡
つまり、田沼意次本人が望もうが望むまいが、彼の屋敷には高級な付け届けが山をなすことになる。もちろん、そんな事情は誰でもわかっている。けれども、物価高や米価の急騰で庶民が生活苦にあえいでいるときに、「田沼様のお屋敷って、すごいんだってさ……」みたいな噂が流れてくれば、誰だって頭にくるだろう。
今の世の中だって、自民党農水族のセンセイ方のお宅には、米でもメロンでも山のように届くだろうことは、日本国民なら誰でもわかっている。けれども、スーパーの棚に米がなく、あっても普段の2倍以上の値札が付いている時局で、脳淋じゃなかった農林水産大臣が「米は買ったことがない」なんて発言すれば、炎上するのは当たり前だ。
米価が庶民感情を大きく動かすのは江戸時代も現代も同じ
18世紀後半の日本の場合だと、浅間山の噴火や天明の飢饉で打ち壊しが頻発している時に、付け届けを手に田沼屋敷に入って行く人が引きも切らないとなったら、庶民感情として許せないのも当然のことだった。
そんなときに、クリーンなイメージをまとって登場してくるのが、松平定信なのである。しかも白河藩主として、領内から一人の餓死者も出すことなく天明の飢饉を乗り切った、という「実績」を引っさげている。定信と彼を支持する一派が、反田沼のネガキャンを打てば、人心に刺さらないわけがない。
白河藩の改革を成功させた松平定信には清新なイメージがあった
こうして、田沼意次=賄賂政治家のイメージが固まっていった。ただし、以上の話では問題の半分しか説明できていない。「田沼時代に幕府役人の間で賄賂が横行した事実」の説明が残っているからだ。ではなぜ、田沼時代には賄賂が横行したのだろう。そこには、幕府の本質にかかわる根の深い問題がかかわっていた。