
(歴史ライター:西股 総生)
はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は田沼時代に終焉をもたらした「米不足問題」についてご紹介いたします。
米の価値は「相対的」に低下
大河ドラマ『べらぼう』が描くのは18世紀の後半、老中・田沼意次が幕政を主導したいわゆる田沼時代である。この田沼時代に終焉をもたらしたのは、天明3〜7年(1783〜87)に起きた「米不足問題」であった。
「天明の米不足問題」を理解する前提として、まず次のような社会情勢を押さえておこう。江戸時代に入り長かった戦乱が終わると、各大名らが非正規兵として大量に雇っていた足軽・雑兵は解雇され、農村や都市部に戻って生産人口に加わることになった。戦いで命を落とす者もいなくなったので、全国的に人口は増えていった。また、平和が続く中、各地では新田開発が進み、農業技術の改良とも相まって米の生産量も増えていった。

しかし18世紀に入る頃には、全国的に人口増加が頭打ちになったことで、慢性的に米がダブついて、米価が下がるようになった。また、商業経済が活発化したことによって、米の価値は「相対的」にも低下することになった。
ところが、幕藩体制は基本的には米経済を前提に成り立っている。大名や武士たちは、知行地から年貢として納められるなり、俸禄として支給されるなりした米を、必要に応じて換金しながら暮らしていたので、米では充分にモノを買えなくなってきたのだ。
結果として、幕府も諸藩も慢性的な財政悪化に悩まされ、さまざまな増収策を案出しなければならなくなっていた。田沼意次が重商主義的政策を進めようとしたのも、米以外の歳入を強化する必要があったからだ。

こうしたさなかの天明3年(1783)、東北地方を中心に襲った冷害に浅間山の大噴火などが重なって米が大凶作となり、史上最大級の飢饉が到来することとなった。その被害たるや甚大で、東北地方を中心に多くの農村が壊滅的打撃を受け、餓死者・病死者は推定13万人にも達するという凄惨な地獄絵図が現出したのである。
この時期、稲の品種改良と新田開発が進んだ東北地方では、江戸に多くの米を供給するようになっていた。ために、東北地方の凶作は江戸の経済をも直撃することとなった。
ただし、この天明の大飢饉という事件をひもといてゆくと、天候不順や火山の噴火といった自然災害だけが原因ではなかった事実が浮かび上がってくる。最大の問題は、東北諸藩の失政にあったのだ。

まず第一の要因として、前年の天明2年が全国的に不作傾向だったことへの、東北諸藩の対応があった。天明3年に入ると江戸など大都市圏で米価がジリジリ上がりはじめ、財政難に悩んでいた東北諸藩の多くは、これを見て領内にあった米の在庫を洗いざらい集め、高値で売り抜けるべく江戸へ回送した。そこへ冷害が襲ったことにより、領内の米が一気に払底したのである。

第二に、特産品専売政策がある。もともと農村では米と並行して、麦・稗・粟といった雑穀類を栽培していた。年貢として納めたり現金収入を得たりするための米に対して、自家用にするためでもあったが、冷害に備えた「救荒作物」としての意味合いもあった。
ところが18世紀後半になると、諸藩は財政再建のために特産品の栽培を奨励し、専売品として藩で買い上げる政策を進めるようになる。藩によっては奨励というより、ほとんど強制的に農民に大豆などを栽培させ、洗いざらい買い上げたりしていた。地域によっては、この政策によって雑穀類の作付面積が激減して救荒作物の用を為さなくなり、焼き畑の無節操な拡大によって、猪など害獣の大発生を招いたりしていたのだ。
