11代将軍・徳川家斉の時代に大奥で権勢を振るった大崎(写真はイメージ、KIMURA SOUGO/PIXTA)
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 NHK大河ドラマ『べらぼう』で主役を務める、江戸時代中期に吉原で生まれ育った蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。その波瀾万丈な生涯が描かれて話題になっている。第46回「曽我祭の変」では、蔦重は歌舞伎の興行に合わせて、絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)の役者絵を売り出すことになるが……。『なにかと人間くさい徳川将軍』など江戸時代の歴代将軍を解説した著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

「歌麿の美人画」に続き「写楽の役者絵」を仕掛けた蔦重

 私もまもなく40代の後半に差しかかる年齢となり、やや涙もろくなっているのかもしれない。今回の放送では、喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)が「てい」(蔦重の妻)に連れられて、蔦重のもとに現れた。いったんは決別した2人のコンビが復活し、思わず目頭が熱くなってしまった。

『べらぼう』は、蔦重が江戸のクリエーターたちをどうプロデュースするのかが、見どころの一つ。戻ってきた歌麿が蔦重に言った、こんな言葉が印象的だった。

「他所の本屋は、俺に優しいんだよ。何でもかんでもこれでいいって、それが、俺には楽しくねえんだよ。どうしようもねえ性みてえなもんだと思うけど、ちょいと、蔦重の無茶が恋しくなってたよ」

 求めるハードルが高すぎると現場も嫌になってしまうが、かといって低すぎると仕事に張りがなくなってしまう。現代のプロデュース術、ひいてはマネジメント術にもつながるようなメッセージといえそうだ。

 しばらく袂を分かっていた蔦重と歌麿だが、史実においても、歌麿が蔦重のプロデュースで人物の上半身を描く大首絵の美人画でヒットを飛ばした後、2人は疎遠になったと見られている。

 蔦重は寛政3(1791)年に「身上半減」の処罰を受けると、巻き返しをはかるべく、寛政4~5(1792~93)年頃に喜多川歌麿による錦絵『婦人相学十躰(ふじんそうがくじってい)』シリーズを刊行。それ以来、多くの美人大首絵をリリースするが、寛政6(1794)年あたりから、歌麿の作品が耕書堂から出版されなくなった。

 その代わりに、彗星の如く現れたのが、絵師の東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)で、蔦重のもとでリアルな役者絵を次々と世に出して、ヒットを飛ばすことになる。

 写楽は約140点の作品をリリースするも、たった10カ月で姿を消している。そのため、写楽の正体についてはさまざまな説がある。能役者の斎藤十郎兵衛が有力視されているが、『べらぼう』では「蔦重プロデュース説」をとった。

(前回記事「大河ドラマ『べらぼう』版の“写楽誕生秘話”にSNSが沸く!史実で正体だと有力視されている人物とは」参照)

 江戸で話題に上らせるため、まるで平賀源内が生きていて「写楽」として復活したかのように見せかけようと、さまざまな絵師が協力。前回放送では、画号を「写楽」と決める様子が描かれたが、今回は松平定信がさらにこう命じるシーンがあった。

「画号は東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)とせよ。写楽は東洲、江戸っ子。これは、江戸の誉れとしたい」

 これまでも上方に対抗意識を燃やしてきた定信だけに、自然な展開で「東洲斎写楽」が誕生することになった。