大坂城大手門 撮影/西股 総生(以下同)
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(歴史ライター:西股 総生)

はじめて城に興味を持った人のために城の面白さや、城歩きの楽しさがわかる書籍『1からわかる日本の城』の著者である西股総生さん。JBpressでは名城の歩き方や知られざる城の魅力はもちろん、城の撮影方法や、江戸城を中心とした幕藩体制の基本原理など、歴史にまつわる興味深い話を公開しています。今回は、幕府の行う築城・治水などの土木工事を、大名たちに手伝わせる方式「天下普請」について紹介します。

「財力を消耗させるため」だけではない?

 11月7日掲載の「近世城郭石垣の総合カタログ・江戸城(前編)(後編)」でも触れたように、江戸城は「天下普請」によって築かれたものだ。「天下普請」は「お手伝い普請」とも呼ばれるように、幕府の行う築城・治水などの土木工事を、大名たちに手伝わせる方式である。

 こうした天下普請については、大名たちの財力を消耗させるため、と説明されることが多い。大名たちの財力を消耗させれば軍資金が払底するから、幕府に逆らうこともできなくなるだろう、というわけである。

 天下普請が大名たちにとって大きな財政負担となったのは事実であるから、その意味では「財力を消耗させるため」という説明は、完全に間違いとはいえない。が、決して正解でもない。

名古屋城は天下普請によって築かれ尾張徳川家の居城となった

 江戸時代の初期を考えてみよう。幕府は大名たちに天下普請を命じる一方で、大坂の陣や島原の乱では大々的な軍事動員を命じている。大名たちが本当に軍資金を吐き出してしまったら、こうした動員にも応じられなくなるが、それでは幕府として都合が悪かろう。

 また、世の中が平和になって幕府に対する謀叛が現実味を失っても、江戸城の修築や河川の治水工事など、天下普請は相変わらず命じられている。宝暦4〜5年(1754〜55)に薩摩藩が命じられた木曽川治水工事では、薩摩藩士から病死者や自害者が続出し、この時の恨みが倒幕運動の下地となったとさえいわれるほどであった。

 18世紀半ばの宝暦年間ともなれば、どこの藩も財政逼迫には悩まされている。そんな大名家に対して、財力消耗を目的として天下普請を命じたというのは、説明としては少々無理がある。

現存する江戸城の天守台は1657年の明暦の大火で焼失した本丸を再建する際に築造されたが、天守本体の建築は中止された

 何より、財力消耗が目的であれば、命じられた大名の側も(タテマエはともかく)ホンネではいやいや応じたはずである。むろん、あからさまに手抜き工事を行えば責任を問われようが、所要のスペックを満たしながらも、工費をできるだけ節約できるような工法をとるのが普通だろう。

 ところが、江戸城や徳川期大坂城の石垣を見ると、これでもか!といわんばかりの巨石を要所に配したり、技術の粋を誇示するような加工を施したりしている。普請を命じられた大名の側が金に糸目をつけなかった、と考えざるをえないのだ。

赤坂御門(赤坂見附)の芸術的な超絶技巧石垣。江戸城外郭の枡形虎口として寛永13年(1636)に福岡藩黒田家によって築かれたもの

 大名の財力消耗は天下普請を命じられた結果なのであって、天下普請を命じる理由・ロジックは別の所にあった、と考えなくてはならない。では、徳川幕府はなぜ大名たちに天下普請を命じたのか? そして大名たちは、財政負担を承知でなぜ幕府の命に従ったのか? 歴史的事象というものは時間軸に沿って考えないと、本質をつかむことが難しい。そこで、天下普請とはそもそも何なのか、時系列を遡って探ってみよう。