家康に「奉公」する義務
さて、話を徳川幕府の天下普請に戻そう。江戸時代初期に天下普請で築かれた城の代表例としては、膳所城・福井城(慶長6年/1601)、加納城(慶長7年/1602)、彦根城(慶長9年/1604)、篠山城(慶長14年/1609)、名古屋城(慶長15年/1610)などが挙げられる。
岐阜市にある加納城の石垣。関ヶ原合戦の直後に家康が現地を視察した上で、奥平信昌に築城を命じた
ここで、膳所城・福井城・加納城の築城年に気付いた方は、鋭い。これらの城は、家康が征夷大将軍に任じられる慶長8年(1602)より前に普請が始まっている。幕府―大名という体制より先に、親分―子分の関係によって城普請が命じられているわけで、頼朝が大庭景義を御所造作の奉行に任じたのと、同じ図式であることがわかる。
関ヶ原合戦で東軍の大将として勝利した家康は、西軍諸将から没収した所領を戦功のあった東軍諸将に分配していった。この「御恩」によって親分―子分の主従関係が成立し、諸大名には家康に「奉公」する義務が生じたわけである。
今治城に建つ藤堂高虎の像。家康の信頼を得た高虎は関ヶ原での戦功によって加増され、いくつもの天下普請で腕をふるった
上に挙げた城を見てゆくと、まず福井城と名古屋城は家康の息子である秀康と義直が城主である。親分の御曹司のために子分たちが汗をかくのは、鎌倉の段葛と同じ図式だ。それ以外の城は、主に譜代大名が入った城であるが、全体とするなら大坂を取り囲む配置になっている。つまり、徳川軍の戦略拠点として必要な城というわけだ。
諸大名、とくに豊臣秀吉によって取り立てられていた西軍諸将は、関ヶ原以降、家康との間に親分―子分の関係を結ぶことになったわけだから、豊臣家に対する忠義よりも家康への忠誠を重んじますよ、という意思表示をしなければならない。早い話、家康は「徳川につくなら根性見せろや」といっているのである。
名古屋城の石垣築造に際して根性を見せる加藤清正
かたや「根性見せろや」と迫られた大名たちは、他家に負けないだけの根性を見せなければならない。根性で負けるのは、武門の恥である。戦争がなくなったらなくなったで、軍役や城普請とは別の形で、御恩に対する奉公を務めなくてはならなかった。
薩摩藩が木曽川の治水工事を命じられたのも、赤穂浅野家が勅使饗応役を命じられたのも、御恩―奉公の関係においであることが理解できよう。天下普請は大名の財力を消耗させるためというのは、原因と結果を取り違えた解釈なのである。
泉岳寺にある浅野内匠頭墓所。赤穂事件の発端となった勅使饗応役も天下普請と同様、主従制原理に基づく「奉公」であった
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