「天下普請」とは?

 天下普請と同様の方式による築城の早い例としては、鎌倉幕府が築いた元寇防塁を挙げることができる。文永11年(1274)の元寇に際して蒙古軍の九州上陸を許した幕府は、蒙古軍が撤退した後、西国の御家人らに命じて博多湾一帯の海岸線に石塁を築かせた。

福岡市生の松原に残る元寇防塁

 弘安4年(1281)の再侵攻では、防塁が功を奏して蒙古軍に上陸を許さなかったものの、築造や警備に駆り出された西国御家人らの消耗は大きく、鎌倉幕府滅亡の遠因になったとさえ評されている。

 こうした天下普請の源流をさらに遡ると、実は鎌倉幕府の成立にまで行き着く。すなわち、治承4年(1180)に挙兵した源頼朝が鎌倉に入った際、大庭景義を奉行として頼朝の御所を造作するよう命じた、という記事が『吾妻鏡』に見えるのだ。

 御所といっても、この時点では田舎武士の屋敷に毛が生えた程度の建物でしかないけれど、施設というハード面においては間違いなく鎌倉幕府の第一歩であった。頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられる12年前のことである。

源頼朝は関東の武士たちを従えて鎌倉に入り、日本初の武家政権(=幕府)を草創した

 鎌倉に入った源頼朝が大庭景義に御所の造作を命じた、という『吾妻鏡』の記述だけを読むと、景義は工事の差配をしたにすぎないと思うかもしれない。しとか、頼朝が鎌倉に入ったのは伊豆で挙兵したわずか3ヶ月後だから、幕府の組織は整っていない。  

 それに、流人だった頼朝には財政基盤なんかないから、造作に要する人手や費用は大庭景義本人が負担するしかない。景義は石橋山の合戦から頼朝に従っていたし、現在の藤沢市あたりが本拠であったから、信頼ができて土地鑑のある人物として奉行に任じられたのであろう。

大蔵幕府跡。鎌倉に入った頼朝は鶴岡八幡宮に近いこの場所に御所を構え、幕府の中枢部となった

 同様に、施設の建設や行事の実施に際して御家人の誰それに奉行を命じた、などという話は『吾妻鏡』にはいくらでも出てくる。鶴岡八幡宮の参道である若宮大路の段葛にしても、政子が頼家を身籠もった際の安産を祈願して、御家人たちが土石を運んで築いた、と伝わるものだ。要するに、こうした事業に際しての費用負担や労役提供は、親分に対する子分どもの義務なのである。

若宮大路の段葛。周囲の路面より一段高く造られている。現在の段葛は実際には近世に修復されたもの

 なぜ義務かというと、武家社会における主従関係は「御恩」と「奉公」によって成り立っているからだ。親分(主君)は子分ども(武士たち)の領地や権益を保障してやり、手柄があれば新しく領地を分け与える。

 それに対して、子分どもは戦争になれば武力を提供し、戦争がなければ親分の必要とするものを提供・上納する。ゆえに手抜きはありえない。むしろ「自分は新しい領地をもらって収入がガッポリ増えましたぜ」「自分は親分のために、こんなに頑張って忠義を尽くしてやす」というアピールが必要なのだ。