江戸幕府はなぜ大名に公共工事を手伝わせたのか?「財力を消耗させるため」だけではない、抗えない理由とは 大坂城大手門 撮影/西股 総生(以下同) (画像1/13) 名古屋城は天下普請によって築かれ尾張徳川家の居城となった (画像2/13) 現存する江戸城の天守台は1657年の明暦の大火で焼失した本丸を再建する際に築造されたが、天守本体の建築は中止された (画像3/13) 赤坂御門(赤坂見附)の芸術的な超絶技巧石垣。江戸城外郭の枡形虎口として寛永13年(1636)に福岡藩黒田家によって築かれたもの (画像4/13) 福岡市生の松原に残る元寇防塁 (画像5/13) 源頼朝は関東の武士たちを従えて鎌倉に入り、日本初の武家政権(=幕府)を草創した (画像6/13) 大蔵幕府跡。鎌倉に入った頼朝は鶴岡八幡宮に近いこの場所に御所を構え、幕府の中枢部となった (画像7/13) 若宮大路の段葛。周囲の路面より一段高く造られている。現在の段葛は実際には近世に修復されたもの (画像8/13) 岐阜市にある加納城の石垣。関ヶ原合戦の直後に家康が現地を視察した上で、奥平信昌に築城を命じた (画像9/13) 今治城に建つ藤堂高虎の像。家康の信頼を得た高虎は関ヶ原での戦功によって加増され、いくつもの天下普請で腕をふるった (画像10/13) 名古屋城の石垣築造に際して根性を見せる加藤清正 (画像11/13) 泉岳寺にある浅野内匠頭墓所。赤穂事件の発端となった勅使饗応役も天下普請と同様、主従制原理に基づく「奉公」であった (画像12/13) (画像13/13) 江戸幕府はなぜ大名に公共工事を手伝わせたのか?「財力を消耗させるため」だけではない、抗えない理由とは この写真の記事を読む