小早川秀秋はいつ裏切ったのか

高橋:7月29日には、会津攻めに加わっていた池田照政、藤堂高虎、井伊直政、浅野幸長らを上方へと向かわせます。

 また、家康は大坂にいる三奉行に西軍鎮圧のための兵站を準備させるつもりでした。しかし、三奉行が反乱の首謀だと知るや否や、東海道の諸城に徳川家家臣を配置する在番体制(※)を定め、小山を発って江戸へ向かいました。

※大名や家臣が、一定期間、特定の城・都市・重要拠点に常駐(在番)して警備・政務・監視を担う体制のこと

──「家康は関ヶ原での決戦を最初から望んでいたわけではない」とありましたが、家康はどのような作戦で西軍と戦う算段をつけていたのでしょうか。

高橋:初めは江戸にとどまり、様子を探っていました。

 8月23日、福島正則ら東軍先手衆が西軍の織田秀信の居城である岐阜城を攻め落とします。この段階で家康は、敵の主力が大柿にいるという情報を得、自身も西へ向かうことを決意しました。

 家康は、大柿城を水攻めにして西軍の主力を引き出し、そこで決戦をしようとしていたと思われます。関ヶ原と大柿は約14キロ離れています。

 当時の史料では「大柿決戦」という言葉も見られますし、毛利家家臣で東軍に内通していた吉川広家は「南宮山(大柿と関ヶ原の間にある山)のこと」と書状に書いています。どこで戦うことになるかを、誰も予測できませんでした。

──小早川秀秋は、西軍にとってどのような存在だったのでしょうか。

高橋:西軍が挙兵した当初、小早川秀秋は西軍による伏見城攻めに加わっていました。

 その後、奉行衆から家康攻めの先鋒になるよう命じられましたが、伏見攻めで人数を失ったとしてこれを拒否。また、北国の前田利家の対応をすることに決まりましたが、これにも従わず、9月初頭頃には犬上郡と彦根市の境目あたりの近江の高宮に大軍を置いて、消極的に西軍に敵対するようになります。

 9月9日頃から、西軍では「小早川秀秋が東軍についた」という噂が立ち始めました。この頃から、西軍にとって小早川秀秋は警戒すべき存在になっていました。

──小早川秀秋はいつから東軍に加勢していたのですか。

高橋:8月26日から行われた西軍による伏見城攻めに参加していたことから、小早川秀秋は当初は西軍についていました。

 ただ、8月23日以前に小早川秀秋は既に家康の使者である山岡道阿弥と連絡を取り合っていたことがわかっています。そして、9月3日よりも後に、東軍につくことを確約したと考えられます。

 そして、9月14日には、小早川秀秋は家康の命令で近江から国境を越えて伊勢へ進軍。西軍の伊藤盛正が任されていた松尾山城を占拠しました。

 このようなことから、小早川秀秋は8月下旬には伏見城攻めに参加しつつも東軍につく算段をしていたと考えられます。小早川秀秋の東軍加勢を決定付けたのが、松尾山城への攻撃だったと言えるでしょう。