藤原京が短命だった理由

──694年に完成した藤原宮・藤原京において、「新しい国づくりが一つの節目を迎えた」とありました。これは、具体的にどのようなことでしょうか。

海野:藤原京は日本で初めての「都城」です。都城とは、古代国家が政治・行政の中枢として計画的に造営した首都都市です。都城では、宮殿や官庁を中心に、東西南北に碁盤の目状の道路を走らせ区画を分け、そこに豪族や有力者、貴族層を集めて住まわせ、宮殿で実務をさせます。

 それまでの飛鳥の宮殿では、そこで働く人たちは現代で言うところの「通勤」をしていました。あるいは、政治や行政の主要業務を、宮殿周辺にある建物で行ってきました。そういった政治や行政を取り仕切る場が分散した状態から1箇所に集約したという点で、藤原宮・藤原京は非常に大きな変革だったと言えます。

 その背景には、当時中国大陸で栄えていた唐の影響が色濃くありました。唐の政治制度やそれを物理的に取り仕切る場を学び、日本でも都市や建築のかたちで再現しようと試みたのです。社会システムとインフラ、両方をセットで実現しようとした最初の例が、藤原京でした。

──1箇所に政治の場を集約できたのは、それまで支持勢力の影響を受けがちだった天皇の立場がある程度安定したということでしょうか。

海野:それももちろんあります。ただ、当時はそれ以上に日本には対外的な危機が忍び寄っていました。

 663年の白村江の戦い(※)で大敗した日本は、いつ唐や新羅に攻め込まれて併合されてもおかしくない、国家の存亡自体が危ぶまれるような状態でした。そういった危機感があったからこそ、唐に倣い中央集権化を進め、そのためのハードとして藤原京を整備したのだと考えられます。

※朝鮮半島の白村江(現在の韓国・錦江流域)で、倭国と百済の連合軍が、唐と新羅の連合軍と戦い、大敗を喫した戦い

──藤原京は完成からわずか16年後の710年に、文武天皇は平城京に遷都します。なぜ、藤原京は短命の都となってしまったのでしょうか。

海野:まず、造営された藤原京が唐の最先端の都のかたちを模していないことが明らかになったということが挙げられます。これは、おそらく遣唐使が持ち帰った情報から明らかになったのだと思われます。

 当時、唐は東アジアの最先端を走る国家でした。日本が目指していた都は長安です。そのかたちとは異なるものを造ることは、東アジアの中で存在感を増していこうとする日本にとっては非常に不都合でした。

 特に問題とされたのは宮殿の位置でした。長安では、宮殿は都の一番北側に置かれています。一方、藤原京では宮殿は都の中心にありました。そこで、一番北側に宮殿を置き、そこから長い朱雀大路が伸びるような長安型の都市づくりをしようと、新たに平城京の造営に着手したのです。

──なぜ宮殿を北側に置かなければならないのですか。