初めももなければ終わりもない
数学の大河と向き合う
さて、上の志村さんの引用後半に見えるように、この人の舌鋒筆鋒は鋭く、何事も微温を持ってよしとしやすい日本のアカデミアには全く不向き、国際社会でイニシアティブを取る第一人者だった。
1959年、パリ~プリンストン大学出張から帰国、東京大学教養学部助教授として教壇に立つものの、そのレベルの低さに閉口、心機一転を期して61年大阪大学教授として転出する。
しかし、俸給は欧米での非常勤の半額以下、子供も生まれ、思い切ってヴェイユに身の上相談。1962年、プリンストン大学客員教授として頭脳流出。
1999年まで37年間、豊かな数学の地力を駆「使」して、つまり、使えるだけ使い倒して、1999年69歳で定年するまで、数学の女王などとも呼ばれる王道中の王道「数論」の中心課題に、莫大な業績を挙げ続けることができた。
今日の日本の大学で急増しているような雑務からは自由な人生であったかと思われるが、細かな査読などにも心を砕かれ、本質的には懇切で優しく細やかな精神の持ち主であったことが、書籍の隅々から察せられる。
ちなみに筆者は志村さんが米国に頭脳流出した年に生まれ、ティーンだった1983年の「モーデル予想」の解決、1984年にゲルハルト・フライの「谷山・志村予想が正しいならフェルマー予想も正しい」という予想(フライ・セール予想)が発表され、日本評論社「数学セミナー」誌などに関連の記事が並んだのをよく記憶している。
筆者にはそれらを深く理解する能力は全くなかったが、のちに志村多様体のトップランナーとなる藤原一宏のような友人が同級生にあり、仕事をまぶしく見た印象のみ強く残る。
志村さんの訃報として「フェルマーの最終定理」証明に貢献、を強調するくらい、多分、彼の精神に反することはないように思う。
極論すれば「フェルマーの最終定理」という骨董品的な特例は「使えない数学」袋小路の一例に過ぎないと、何事にも冷静かつ過不足ない視線を注がれる志村さんが、相対的な意味や位置づけをもって、骨董品的な「フェルマーの定理」を軽く見られても、全く不思議ではない。
「フェルマーの最終定理」は1995年、アンドリュー・ワイルズが「志村予想」を、やはり日本の数学者である岩澤健吉さんの理論を巧妙に用いて解決することで証明された。
しかし、それは数論の巨大な問題設定である「志村予想」の定理を証明する際の、ごく特殊な一例、系の一つとして「フェルマー」も示されたのであって、数学王道の本質としては「ζ関数の統一」など、個別の問題解きを超えた、始めもなければ終わりもない、数学という大河に向き合う人智の本質的な姿勢が決定的であると言うべきだろう。
志村さんや岩澤さんは、正田健次郎を筆頭に当時の日本にも存在した本質的でコンパクトな議論から、そのような数学の本義を早い時期に学ばれた。
私は正田教授にタッチの差で直接ご指導いただくチャンスを逸した経緯がある。親しい先輩たちから漏れうかがう正田さんの指導方針は、最初から本物に触れさせるというものであった。
実は正田先生は最晩年、中学高校生の指導にあたっておられた。