
コンピューターが故障したのではないかと 我が目を疑いました。
「ゆかり」の写真がJBpressに載っているじゃありませんか。
宮沢洋さんが執筆された3月20日付のJBpress「知る人ぞ知る丹下健三の傑作(1)曲面の庇がコンクリートの威圧感を和らげる」として、私にとってよく見慣れた「ゆかり文化幼稚園」の写真が記事ランキングに並んでいました。本当にびっくりしました。
私は、作曲同門の大先輩、藤田厚生さん(ゆかり文化幼稚園理事長)から2024年10月に、この幼稚園の理事に就任することを委嘱されました。
事務方からはまだ連絡をもらっていないのですが、その背景には、実はなかなかシビアな現実があるのです。
「丹下健三建築の傑作」として第一に推されている「ゆかり文化幼稚園」の建物は、いま地主から「立ち退き」の請求が出され、解体、「さら地」に戻して返却を求められており、この苦境を脱するために「ぜひとも理事就任を」と求められたのです。
そんな面倒な相談を受けたのには、浅からぬ理由があってのことで、そこからお話したいと思います。
「はーるよ 来い!」の幼稚園
皆さんは、昔ののどかな「はーるよ 来い! はーやく 来い! あーるき はじめた みーちゃんが・・・」という童謡をご存じでしょうか?
21世紀生まれの世代には、この歌が通じない場合があって「松任谷由実じゃないんですか・・?」などと言われることもあります。
作詞:相馬御風、作曲:弘田龍太郎の1914年の作品ですから111年も経過していることになりますが、全く古びず、幼い心に響く、素晴らしい童謡と思います。
この歌を作った弘田龍太郎氏は「鯉のぼり」「浜千鳥」「叱られて」「靴が鳴る」など、嫌味のない、まっすぐで筋の良い童謡を多数遺しています。
実は、この「弘田龍太郎」氏こそが、「ゆかり文化幼稚園」の創設者、初代園長その人にほかなりません。
弘田龍太郎氏の娘である「妙子」さんと、ご伴侶である「藤田復生」氏が20世紀後半の50年間、この幼稚園を通じて「日本の幼児教育」そのものを作り出したと言っても過言でないほど「ゆかり文化幼稚園」は重要な教育機関です。
なぜと言って、元来は日本画家だった藤田復生(ふじたまたお)氏は、戦後の玉川大学短期大学部に設置された幼児教育部の初代教授、やはり日本画を学んだ藤田妙子夫人は駒澤大学女子短期大学部保育科の助教授として、ともに「幼稚園教諭」の育成にゼロから取り組まれてきたからです。
ご夫婦で、大学からもらう給料を集めて園に入れ、園からは給料をもらうことが長年なかったという、大変な努力のうえに、この幼稚園は成立しました。
今日「幼稚園」で一般的な、粘土や折り紙、キビ殻などを用いて作られる「工作」などの表現は、相当部分が藤田夫妻がゼロから工夫し、ゆかり文化幼稚園で試行錯誤した結果、確立されたものです。
こうした「人を育てる人」を育てていた藤田復生氏の活動を、近所に住んでいた丹下健三氏はよく認識していた。
そしてそんな藤田復生さんの「園舎を新築したいのだけれど、誰かいい建築家を紹介してもらえませんか?」という依頼に「いや、私自身で設計します」と自ら名乗りを上げたのが、1964年の東京オリンピックの会場となった国立代々木競技場が完成した直後の丹下健三氏だったわけです。
構造建築は代々木の国立競技場と同様、川口衞氏が担当。
丹下・川口のコンビはこれに続いて1970年大阪万博の「大屋根」お祭り広場の仕事に取り組むわけで、日本の建築史上でも非常にユニークな位置に、この「こどもの城」は建っているのです。
「ゆかり」の建物については宮沢さんの生き生きした記事に多くを譲り、そこに記されていないことを2、3補いたいと思います。
「曲面の庇がコンクリートの威圧感を和らげ」「南側の園庭から見る」と「園舎に見守られているよう」だと、宮沢さんがお書きになっているのには、実は幾何学的な背景があります。
「扇形」に開く形の庇は実は2つの「扇」からできており、各々が園庭の「楕円」の2つの焦点に収束しています。
記事では素敵なスケッチに添えて宮沢さんが「植物的」とお書きでしたが、多くの植物が従う、単純なジオメトリーが採用され、実は古典的な遠近法が転倒されたデザインになっている。
本当に丹下建築の「隠れた傑作」なのです。
ただ「威圧感を与えない庇」は、雨が降ると雨どい的に機能して、初期は上階のテラスが水浸しになって困ったそうです。この問題は排水溝を増設することで解決されました。
また宮沢さんの記事の末尾「ちなみに園名の『ゆかり』は藤田復生の『藤=ゆかり花』と『縁』をかけている」はちょっと違っているのです。
藤田は藤田でも別の藤田、1代前の命名なのです。