恩師が「いそうろう」として住んでいた園舎
昭和23年、京都の旧制第三高等学校(現在の京大教養部)を卒業したばかりで、単身東京に流れて来た19歳の若者がありました。
両親は亡くなり、兄は戦争に行ったまま帰ってこない。
なけなしのお金で成城に下宿して東京音楽学校教授、高濱虚子の次男でもある池内友次郎の内弟子となり、東京音楽学校の受験には合格したのですが、なんと身体検査で重度の肺結核に侵されていることが分かります。
そのとき「あなた、こんなんじゃ死んじゃうわよ」と世話を焼いてくれたのが、「春よ来い」の作曲者、弘田龍太郎氏の長女で、ゆかり文化幼稚園を開園したばかりの、藤田妙子さんだったんですね。
妙子さんは結核の療養施設を調べてくれ、都下・清瀬村の結核療養所と話をどんどん進め、「彼」は入所、6年間に7回の大手術で全身傷だらけになりますが(風呂でよく流したので鮮明に覚えているわけですが)なんとか「こっち側」の世界に帰ってきた。
でも行き場がないので、仕方なく、戦後すぐの「ゆかり文化幼稚園」建物、いまの「大ホール奥」の部屋に数年間「いそうろう」させてもらっていたのが、作曲家の松村禎三、私の子供の頃からの師匠にほかなりません。
内弟子でしたので、風呂で背中も流しましたし、三越劇場やら日生劇場やら、いろいろな現場に連れ回されて、武満徹氏とか、水上勉さんとか、いろんな人が見ている前でさんざん「かわいがり」(いたぶり、ですね)を受けました。
いまなら間違いなく「ハラスメント」と思いますが、一番近くにいた秘蔵っ子ではありましたので、私の今の仕事、というより、人となりに繋がっています。
「ゆかり文化幼稚園」とは、そういう「ゆかり」ご縁が私にはありまして、ですからJBpressのラインナップに写真を見つけたときは、パソコンが壊れたかと思うほど、ビックリしたわけです。
デベロッパーからすれば、単に世田谷区の土地、不動産売買に過ぎないのかと思いますが、「ゆかり文化幼稚園」の建物には、丹下健三の、そして川口衞の重要な足跡が刻印されています。
また、これを揺籃として過去60年「成城ソルフェージュ研究会」が日本の「よい耳」の水準を支えてきた。音楽の無形の伝統も、この学舎に受け継がれているのです。
私にとっては、師の松村がティーンの頃を、小学生としてよく覚えている藤田さんの幼稚園、あのオソロシかった野田先生が生涯をかけて守った園地ということになる。
どうか破壊や立ち退きの危機を脱し、日本の伝統を明日に繋げるものになってほしい、と願うばかりです。
宮沢さんの記事には「ゆかり」が「藤の花」はありましたが「ゆかり文化」幼稚園の「文化」の理由は記されていませんでした。
これは1946年、日本全国が焦土と化し、焼け跡の中から新しい人たちがこれからは戦争ではなく「文化」を、しかも外から教え込まれるのではなく内側から伸びる、若い樹木の「芽」のように自ら育ってほしい・・・。
そういう願いを込め、優れた環境を準備し、そこで子供が自由に飛び回れるようにして、あれこれ教え込むのではなく自発的な創造性を高めてほしいという願いを込めて「文化幼稚園」と名付けたわけです。
「八紘一宇、本土決戦、非常時の国民学校」ではなく「自由と自立の文化幼稚園」。
ここから発して、日本全国の戦後の幼稚園教育が幅広く芽も茎も、根も花も実も、世界に広げて行ったわけです。
ちなみに、藤田厚生さんご自身は藝大卒業後、パリに留学され、作曲家のアンリ・デュティユに学ばれました。
私も31歳のとき、デュティユに励まされたことが、どれだけ力になったかわかりません。
そんな「音楽の場処」でもある「丹下建築の隠れた傑作」が、どうか破壊を免れるよう、心から祈らずにはいられません。