日本洋楽を支えた成城ソルフェージュ研究会

 1967年、立派な園舎が完成すると、当時27歳、パリ留学から帰って来たばかりの若き作曲家、藤田厚生氏に、師匠の池内友次郎・東京藝大教授が提案しました。

「こんなに立派な建物があるのなら、そこでソルフェージュ教室を開いたらいい」

「ソルフェージュ」は、音楽関係者はよく知る「聴音」などの課題を問う、受験生からは嫌われがちな科目です。

 私が東京藝大で担当したのもこの科目で、担当教官の性格の悪さが課題に直接反映する傾向がありますね(苦笑)。

 これに先立つ1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約でGHQが去った後、焼け跡の日本から再び文化の芽を、花を咲かせよう、と三井不動産・江戸英雄氏中心に作られたのが「桐朋」だったのです。

 このようにして世田谷区砧からほど近い、調布市若葉町に「桐朋学園」女子短期大学付属音楽高等学校が創設されました。

 第1期の「小沢征爾君」は、トーサイと呼ばれた斎藤秀雄氏のもとを出奔して1959年にブザンソン指揮者コンクール第1位、以後カラヤン、バーンスタインらに愛され国際的なキャリアを積んだのはよく知られる通りなのですが・・・。

 今だから書けますが、小澤さんはソルフェージュが得手ではなかった。ピアノも弾かれず、いわば動物的な本能で駆け抜けた人生でした。

 何かと脚色されがちな「N響事件」(1961)は、小澤さんと同い年のコンサートマスター、海野義雄氏が先頭に立って小澤氏をボイコットした。

 なぜといって、音をよく聞けていなかったから。ソルフェージュの基礎教育が、当時の日本にはまだ普及していなかったのです。

 音楽家、特に指揮者というのは、目の前で鳴っている音を冷静に聞いて判断し、必要な修正を実現するためのリハーサル、練習手順を瞬時で考えて実施する「超絶ダンドリくん」的な能力が(国際的には)必要です。

 ところが、小澤さんはそういう実力を養う前に「日の丸の旗」を背負って世界の第一線で戦い始めねばならなかった。

 私の母方の伯父、三井建設で副社長などを務めた藤田英雄(1923-99)は江戸英雄さんの部下として桐朋の設立を財務の立場で支えましたので、「次の世代は、こういう基礎を大切に」と考え、私自身その最たる教育を受けました。

 また私の双従兄、外山雄三が「20代はあらゆる下積みで経験を積む」ことを勧めてくれたのは、小澤さんもそうですが、若くして売り出される悲惨をいくつも見てきたからだと思います。

 そんな経緯で1967年、落成した「ゆかり文化幼稚園」の建物(はすべての部屋にピアノが設置されている、素晴らしく恵まれた芸術家の創った幼稚園だったの)で「成城ソルフェージュ研究会」は発足しました。

 テスト生は、当時東京藝術大学付属音楽高等学校生だった高橋千佳子さんと、中学生だった野平一郎君。

 これを当時まだ20代前半の池辺晋一郎川井學の両氏が育てた所に始まって、20世紀後半の「耳のいい音楽家」の一定割合は、ゆかり文化幼稚園に併設された「成城ソルフェージュ研究会」が輩出してきたのです。

 もし「ゆかり」の丹下建築が破壊され、さら地に戻されてしまうと、この「成城ソルフェージュ研究会」も消えてしまう。

 日本の良心的な「よい耳」の伝統もデベロッパーに破壊されてしまう。

 これを守るべく、藤田厚生理事長とともに立ち上がったのが、作曲家・東京藝術大学副学長の故・野田暉行氏でありました。

 実は私、高校生時代の短期間、野田先生についたことがあり、もう目に入るだけで「恐怖」の対象だったのですが、その野田先生が亡くなる直前まで「丹下健三建築」さら地化に抗って、「戦う理事」としてゆかり文化幼稚園のために奮闘しておられたことは、没後になって知りました。

 その野田先生なき後、「丹下建築を守る」理事としてお声がけをいただいたのです。奮闘しないわけにはゆかないのですが、さらに前史があるのです。