借地に92年、取り壊し危機に直面する園舎

 この地に幼稚園ができたのは、実は1947年ではありません。さらに一昔前、1933(昭和8)年、明仁上皇が生まれた年に、退役した陸軍少将、藤田直太郎氏が私設の「こども園」を作ったのが、そもそもの始まりだったのです。

 藤田直太郎(1870ー1958)陸軍少将は福井県生まれ。陸軍士官学校(陸士)4期入学、在学中に日清戦争が起きています。

 卒業後、日露戦争に出征して軍功を挙げ、明治大正を生き抜いて1922(大正11)年、予備役編入で軍歴を閉じました。

 それから約10年後、すでに63歳になってた藤田直太郎は、砧(東京都世田谷区)の地主から安価に広大な土地を借り、広大な私設「子供園」を作ります。

 しかし、数年で戦争が勃発、長男の藤田復生氏は兵隊にとられますが、出征前の昭和15年には長男「厚生(あつお)くん」が誕生します。現在の理事長、藤田厚生氏(85)その人にほかなりません。

 幸い元気に復員した藤田復生・妙子の若夫婦に、父方の父「藤田直太郎」が「園主」。

 母方の父で、東京音楽学校ピアノ科教授を務めながら、ドイツ留学歴があって親独(=親ナチス)と見られ、東京藝術大学を去った弘田龍太郎が「園長」。

 この2人が「園主」「園長」として、戦後に法人化されたのが、現在の「ゆかり文化幼稚園」でした。

 そこで培われた「戦後の幼児教育」は、現在では日本全国に普及して、誰もその原点を意識しないまで、完全に「日本の文化」になっています。

 しかし、昭和8年に藤田直太郎氏が借地した土地は、そのままなんですね。92年の間に地主が変化し、現在はデベロッパーが土地の権利をもっています。

 本件は、係争中の案件なので、ここに書けることは極めて限られているのですが、唯一強調しなければならないのは、デベロッパーも、裁判所すら、「幼稚園の建物」は単に建物であるにすぎないということです。

 それが丹下健三の傑作だとか、戦後日本建築史を考える上で重要な建築物だとか、国立代々木競技場などほかの丹下建築と一緒に国連ユネスコの世界遺産登録申請される可能性があるとか、そうしたことと全く関係ないということです。

 単に「土地」「建物」。

 そんなことで、この重要な建築が「取り壊され」「さら地に戻されて」「再開発」などということがあってはなりません。

「理事として私にできることがあればできる限りの助力を惜しまない」と、藤田厚生さんにお約束したのには、もう一つ理由があるのです。