資質ある少年を本物の環境に放し飼いにし、おかしな「餌付け」で「潰し」さえしなければ、勝手にすくすくと伸びることが分かっている。

 今回は記さないが、少年時代の岩澤健吉さんについても同様の経緯があったと仄聞している。

 数学史の王道にオリジナルな貢献を果たした、これら真の才能の育成を考えるうえで、大学入試の悪問や数学オリンピックなどによって醸成されかねない「問題解き」のメンタリティは、有害であって無益、木を見て森を見ず、大道に目を塞いで些事にこだわる「小人」のわざであると、志村さんは警鐘を鳴らされる。

 中国古典にも精通した志村さんのこうした書きぶりは、今日のSNS的悪平等の観点からは「上から目線」と誤解され、いわれのない誹謗中傷も受けた面があるように思う。

 しかし、大河を進む志村さんは泰然自若、悠々と「最期の4冊」を有り難いことに日本語で、日本の若い世代に遺して、先週瞼を閉じられた。大家を喪った。

 「今日このような勘便で小型の書物があってよいと思う」だけでなく、志村さんは有言実行で、 4冊も「簡便で小型」ながら、英語でオリジナルの数学論文が書き下ろせるようになるまでのエッセンスがすべて詰まった、若い世代の日本語読者に至宝のような、親しげな先輩としての創造メモ小冊子4点遺して、幽明境を異にされた。

 一大学教員として、こうした珠玉の書物にこそ触れてほしいと、私は昨日も教養学部の授業で学生諸君に勧めたが、本当にこれらを手にすべきは中学生、高校生であり、あるいは年齢を問わない「精神の数学少年たち」すべてであると思う。

 岩澤さんや志村さんのような「大志」をティーンの時代に身のうちに胚胎することは、どれだけ強調してもしすぎることがない。

 受験だ、オリンピックだといった、すでに解かれた問題の縮小再解決ではない、本質と向き合う経験をこそ、心も頭も柔らかいティーンの諸君に持ってもらいたい。

 志村さんの訃報に触れて強く感じた次第である。