4月15日、突然の出火で燃えてしまったノートルダム大聖堂火災により公開が遅れたトピックスをお届けします。
ドイツのプファルツ州ボルンハイムに本拠地を置く大手小売企業、ホルンバッハAGが公開した音声動画コマーシャルフィルム(CF)[春の匂い編]が差別的である、としてが全世界的な非難を集めました。
あれこれ議論するにも、問題になった動画がなければ始まりませんのでリンク(45秒バージョン:https://www.youtube.com/watch?
このほか60秒バージョン(https://www.youtube.com/watch?v=wAlyYXRtWvQ)もあるのですが、45秒の方で検討していきます。
このCFについて「女性差別的である」という批判は目にするのですが。それどころでは済まない、もっと本質的な観点が抜け落ちているように思われます。
大昔、学生時代に蓮實重彦氏の映画のゼミナールで、ジャン・リュク・ゴダールのフィルムを分析した時期があります。記号論に準拠する映画批評が好きな人は、どうも自分の読み出したい記号を選んでしまう傾向があります。
ロラン・バルトやジル・ドゥルーズなどを引いて、美しい詩を書いてくる学生もいるのですが、フィルムの分析はもっと徹底して、その表層のみに寄りそうべきだと私は思います。
あらゆる予断を廃し、「まずは目の前に映されているイメージそのものを直視するところから始めるべき」と、すでに音楽を職業にしていた理系出身の私は、当時も延々主張せざるを得ませんでした。
それと全く同じことが、いまも繰り返されているように思います。
今回の「ホルンバッハ」フィルムでも、後半の「アジア人女性」が男性労働者の「ブルセラ下着」の匂いを嗅いで恍惚とするシーン近辺だけを抜き出して、あれこれ批判されているように見えます。
しかし、前半部、中間部など、いったいどこを見ているのかと思うほど、コンテンツそのものを見ていません。それではこの表象を正しく批判することなど、困難でしょう。
まずフィルムそのものをしっかり追ってみます。