ダブルスタンダードが生んだ豊かな成果

 55歳の伊能たち一行は、昼は測量をしながら海岸沿いを進み、夜は天体観測するという旅を続けます。幕府が求めるのはあくまで「地図」という紙一枚のことですが、伊能にとってこの「地図」は平面ではありませんでした。

 あくまで地球という不思議な球体の直径を知りたいという「別の目的」、宇宙への夢が彼に年齢を忘れさせたのだと思います。

 役人は平面で地図ができればよいと思っていた。伊能たちとは、最初から次元が違っていた。

 ローカルな2次元思考の幕府を超えて、科学者たちは球面としての地球を考え、大宇宙を航行する天体の運動を、できるだけ離れた距離から正確に観測したいという「本当の動機」を持って、異常なほどの正確さをもって北海道を測量したわけです。

 道路などおよそ整備されていない18世紀の蝦夷地のことです、歩けない海岸線は迂回せざるを得ませんでした。

 大変な行程ながら、120日ほどで第1次測量はひとまず終了、全行程も半年程度で、江戸に戻って20日ほどの集中した作業で伊能版の蝦夷地詳細地図が作成されました。

 この功績が認められて伊能は苗字帯刀を許されています。武士の形になりますが、およそ幕藩体制の閉鎖的な思考とは無縁の新人類が、50代の青春を迎えていたわけです。

 この蝦夷地測量で作成された地図は詳細を極め、平面思考とはいえ幕閣は驚嘆、海防の必要からさらなる測量の打診が高橋と伊能に寄せられます。

 伊能たちはすでに思考がグローバルになっており、前回歩けなかった海岸線も踏破できる測量船を仕立てての精密測定を計画しますが、平面思考の幕府には通じません。この計画は後に間宮林蔵によって実現されますが、間宮は伊能の弟子たちと政治的に鋭く対立し、のちの「シーボルト事件」が引き起こされてしまいます。

 逆に本土の精密測定なら脈がある。ならば、ということで、そうした政治の圧力も追い風に、伊能たちは三浦半島、房総半島、伊豆など江戸近郊の精密な地図を作成します。

 そしてその間、毎晩毎晩、日本全国の至る所で伊能は天体観測を続けました。

 高橋は幕府の「天文方」であり、測量に必要ということで、必ずしも面従背反ということではないにせよ、伊能測量隊は各地での天体観測に「本当の情熱」を燃やし続けます。