その結果「子午線1度」の値が「北海道ルート」のみならず「下田ルート」などからも求められ、値の比較が可能になりました。実にまともなサイエンティストの思考です。
高橋はオランダ由来の資料に記された値と自分たちの得た複数のデータを比較、それらの一致を見て大いに喜んだと伝えられます。
が、そんな高橋至時は1804年40歳の若さで急逝、この年の秋、伊能版の東日本地図が完成し将軍家斉に報告、西日本の地図も作成せよ、ということになり、結局11年の歳月をかけて測量が行われました。
これらのデータをつなぎ合わせて1枚の地図を作るには、曲面を平面に投影する技術が必要ですが、伊能はメルカトル図法などの技法に通じていませんでした。70を過ぎてもこうした新たな数術に情熱を燃やした伊能でしたが、結局1818年、73歳でこの世を去ります。
が、政治状況を考慮して伊能の死は伏せられ、3年後の1821年「大日本沿海輿地全図」(伊能図)と名づけられた「国家機密」の地図が完成します。
これをまとめ上げ、高橋至時の遺児、景保をサポートしたのが現在の広島、福山出身の箱田良助ら伊能の弟子たちで、箱田は4年後に幕臣榎本家の株を購入、旗本として幕府勘定方を務めます。箱田は結局、幕末開国後の1860年、71歳で亡くなりました。
この箱田良助=榎本武規が46歳になって設けた「遅い子」が釜次郎こと榎本武楊で、父の没後、ちょうど「桜田門外の変」の直後の時期、米国留学が決定します。
しかし、米国では南北戦争が激化の最中であったことからオランダ留学に切り替えられ、ハーグで化学や国際法などを学ぶことになるわけです。
世界が日本を高く評価した理由:シーボルト事件から日英同盟まで
伊能の没後に完成した日本地図は日本の歴史を大きく動かしていきます。国家の最高機密であったこの図のコピーが、完成からたった7年後の1828年、オランダ商館の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの荷物の中から見つかったのです。
高橋至時の遺児、幕府天文方の高橋景保(1785-1829)がこれを渡したものとされ、景保は捕らえられて獄死、背景には間宮林蔵との政治的確執などがあったとも伝えられます。シーボルトも国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。
が、何だかんだ言いながら、優れた情報はコピーされ、外に出て行くものと相場が決まっているようです。伊能図は1830年頃には欧州にもたらされ、その精度の高さは驚嘆をもって評価されます。
とりわけ伊能図を評価したのは英国海軍だったと伝えられます。世界帝国の覇権政策の中、日本の科学技術は決して侮ることができない、という政策上の大きな判断が下されるに当たって、伊能図の持つグローバル最先端の技術水準は決定的な役割を演じました。