「国策」から「天の理法」へ、伊能忠敬はなぜ測量したか?
明治新政府がそうそうに「学制」を導入したのは賢明な施策だったと思います。すべての国民に等しく教育を施す、例えば文字の読めない人をなくし、民度の高い社会を作り出す基盤が整えられたのは、日本にとって幸運なことでありました。
しかし、たび重なる明治初期の政変で多くの有為の人材は政府を去り、民間で反骨の志を貫いて大きな成果を得ています。少し前に記した北里柴三郎は典型的でしょう。
すでに熊本での少年時代、オランダの恩師から、世界トップ水準の教育を施された北里は「日本の夜明けは近いぞ!」と鞍馬天狗のおじちゃんに教えられた杉作少年(大仏次郎が幕末の志士活躍を描いた小説「鞍馬天狗」の描写ですが)のようなもので、本物の高い志を持った例外的存在、マイノリティだったわけです。
幕末期に西欧に送られ、最新学術を学んだ西周、中村正直、榎本武揚といった人材は、明治以降の政府で決してマジョリティではなかった。
榎本武揚(1836-1908)のケースは典型的でした。彼の父、箱田良助(1790-1860)は備後の国の庄屋の次男で、武士ではありません。
千葉の九十九里で名主・造酒屋の家に生まれた伊能忠敬(1745-1818)のアシスタントとして、西欧由来の進んだ測量で日本地図を完成したのが箱田良助で、榎本はその息子にほかなりません。
伊能もまた、武士ではありませんでした。今の千葉と茨城の県境、下総国佐原の造酒屋に婿養子で迎えられ、前半生はビジネスで成功した人物です。
当時の佐原は天領、つまり幕府直轄地で、水郷の商都で、武士はほとんどおらず、町人が合議して自治的に共同体を運営していた。その佐原で名主として40代までを過ごした伊能は、50歳にして江戸に出「隠居仕事」として天体観測と暦を学び始めます。
が、ここで注意しておくべき要点があるのです。伊能は紙の上の勉学だけでなく、毎日精密な天体観測を徹底して行ったという事実です。
18世紀末、江戸にはすでにティコ・ブラーヘとヨハネス・ケプラーの精密な天体観測がもたらされていました。
50歳を過ぎた伊能は、紛うことなくグローバルに先端的の精密科学に「隠居仕事」一切の営利と無関係なライフワークとして取り組みます。
江戸幕府の封建制が十分腐敗していた時代、そうした雑事を離れ、まさに「天の理法」に基づく宇宙の正しい秩序を「観測」、ファクトに基づいて知りたいと思った・・・ここに彼の「動機」が周囲の凡俗と隔絶していたポイントがあります。