でも伊能自身にとっては、それは仕事の副産物に過ぎなかった。本当に彼を突き動かしたのは「地球って本当はどんな大きさなのだろう?」「ケプラー法による天体観測の真の精度を極めたい」という純粋な情熱だった。
その品位を「貴族の遊び」としてサイエンスを推進していた19世紀英国の知性は鋭く察知したのかもしれません。
「この相手は侮ると大変なことになるかもしれない」
英国は一方で1840年以降、アヘン戦争~アロー号事件~アロー戦争と、清朝と戦い、これを勢力化に置いていきます。
一方、日本に対しては1853年、米国大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーが来航、不平等条約が押し付けられはしますが、対中国のケースのような露骨な「植民地支配」という魔手はついぞ伸びることがなかった。
なぜなのでしょう?
19世紀最末年に至って、日本は欧州の代わりに清朝と戦ってこれを破るといった役回りを演じることとなり、日清戦争終結後、賠償金で八幡製鉄所を作り京都大学を作り。20世紀に入ると英国は数百年に及ぶ「光栄ある孤立」政策を放棄、日英同盟を結んで世界を驚かせます。
どうして極東のハラキリ部族と同盟など結ぶのか?
その背景にあるのは、決して幕閣の鎖国政策でもなければ、内乱を制した明治新政府の薩長閥の政策への評価などでもない。
伊能図が端的に示す、日本の知がグローバルに見て最先端を牽引するに足る可能性、ポテンシャルを持っていることが、非常に大きな意味を持ったのではないか?
実は私自身も英国国教会信徒の家に生まれて4代目にあたり、関連の話題で英国の大学と相談を始めたプロジェクトなどもあるのですが、伊能図が典型的に示すように18世紀の時点で日本はすでに、世界最先端をリードする科学の芽を十分育んでおり、それが適切に国際社会に共有されたことで、国を救った面が多々あると思うのです。