20世紀の日本は、非常に高い成果を上げる人材を多数輩出してきました。いま日本人がノーベル賞を筆頭に、内外で高い評価を受けるのは、そうした過去に育てた人材による業績に対してであることを忘れてはいけません。
翻って若い人材はどうか、と考えると、STAP細胞詐欺を筆頭に、多数の「コピペ博士論文」が疑われたり、「ゆとり」世代の基礎学力不足が指摘されたり、と必ずしも目先の明るい話ばかりではありません。
この先、本当に創造的な人材を輩出し続けていくなら、21世紀、22世紀の日本の基礎科学、本質的な学術の未来は明るいものになるでしょう。
また、過去の遺産を食い潰すような教育、研究の指導行政に陥ってしまうなら、未来は暗いものになると言わざるを得ません。
では、本当に創造的な人材を育てるとは、いかなる教育であるか――。
伊能忠敬から榎本武揚、そして明治の「カウンターマジョリティ」へとつながる「日本を支えた知の系譜」の成功と失敗を検討して、明るい未来を目指す具体的な形、「ファクト」に基づく人材育成を考えてみたいと思います。
典型的後進国型教育とは何か?
ここではまず反面教師から見ておきましょう。
世の中には、典型的な「後進国型の教育」というものがあります。後進国とは、すでに先進国がある状況で「追いつけ、追い越せ」とシャカリキになっている国であり、そこでの研究教育の指導体制と考えることにしましょう。
特徴は、精神的な余裕がないこと、そして膨大な量の知識を表層的に問う、ペーパーテストのがり勉を強要することにあります。管理教育と言ってもいいでしょう。
何の必然性があるのか、よく分からない、断片的な情報を膨大に紙の上の知識として詰め込み、その合否だけを浅く問う詰め込み教育。
中国、韓国に限らず、途上国で「エリート選抜」と言うと、この種のペーパーテストと、それによる選別で社会的な地位や収入などが分かれてしまう学歴社会。
家族総出で子供のテストのカンニングを支援するような事態がいくつかの発展途上国で見られ、そうした報道を目にすることがありますが、この種の情けない事態が笑えないのは、子供の「その先の人生」が、そんな程度のことで左右されてしまうからにほかなりません。
つまり、社会体制として拙劣なのです。