何より作曲家ですが、ピアノも能くされ、野平一郎氏を筆頭に優秀な後進を育てられた。
また、盟友・林光氏と並んで長年、朝日新聞紙上などに音楽評論の健筆をふるわれました。
一線の音楽家がメディア上に評論も展開するのはドイツやフランスに長い伝統があり、シューマン、ヴァーグナーからブーレーズ、シュトックハウゼン、高橋悠治など私自身が指導を受けた戦後第1世代まで、命脈が延々と続いています。
ですが、現在の日本ではほぼ途絶えたに等しい状態にもあるのです。
この表現はやや矛盾を含むわけで、ほかならぬ楽隊業の私自身が、いまこの原稿を書いているわけですから、変といえば変です。
そこで現状に少し言及しておきます。
例えば、作曲家=ピアニストの高橋悠治氏(1938-)は現在もお元気ですし、私にはフロリダのアトランティック・センター・オヴ・アーツ等でご指導いただいた師のお一人です。
悠治さんは極めて舌鋒鋭い文明批評、社会批判をお書きになります。
ただ、いま現在はそれを幅広く展開する場を必ずしもメディアにお持ちではない。
私自身、開高健賞を貰って以降、「日経ビジネスオンライン」など一般メディアに経済時評やAI倫理などの話題は記しても、この連載に音楽について記すことは稀です。
一因は明らかで、音楽の原稿を求める読者が激減したからです。
および、自分の音楽について言葉であれこれ言うのは「楽隊としては負け」と教えられましたので、作曲や演奏については記しません。
また私は演奏会評に興味がなく、黙って自分で演奏する方が早いので、不言実行です。
しかし、1995年にITが普及して以降、現状の日本語ネットでの音楽に関わる情報は、素人の感想文やら提灯記事の類(ウィキペディアなども含め)、端的には「悪貨」が「良貨」を駆逐し切った状態にあります。
間宮さんの訃報を受け、「モノ言う音楽家(特に作曲家)」の最後のレジェンドが去ったことを改めて感じています。
いま、生成AIが当たり前の時代、言葉と、言葉にならないものとで感じ考え、人間が音楽を創り出すとはどういうことか?
追悼の観点から「創造性」について考えてみたいと思います。