リベラル音楽人の系譜
間宮さんの年譜に戻ってみます。
「1953年に外山雄三、林光と3人で作曲家グループ『山羊(やぎ)の会』を結成。日本各地の囃子詞(はやしことば)を素材にした『合唱のためのコンポジション第1番』で58年、毎日音楽賞を受賞した」
間宮さんは、林光、外山雄三、のちには助川敏弥が加わり、これらの各氏と、極めてリベラルな作曲グループ「山羊の会」を結成。
池内友次郎氏自身が熱心な当時の共産党のシンパだったことも影響したのかもしれませんが、彼らは穏健なリベラル・レフトで、ソ連発の「歌声運動」などにも大いに共鳴。
歌声運動の周辺からは「東京混声合唱団」が誕生。
その事務局が発展して、20世紀後半日本の音楽マネジメントで一時代を作った「東京コンサーツ」も生まれ、間宮さんも林光さんも、武満も三善さんも松村も、みなマネジメントは「東コン」でした。
間宮さんの「民謡」や「はやし言葉」の収拾は、ハンガリーの作曲家・ピアニスト、ベラ・バルトーク(1881-1945)に強い影響を受けました。
バルト―クはマックス・ヴェーバーの音楽版といった風情で「インターナショナル」の観点から人類全体の「民謡的なるもの」を指向していたのみならず、フォーヴィズム(野獣主義)やキュビズム(立体主義)などを経由して「シュールレアリズム」「ダダイズム」など、より広範な芸術思潮にも繋がり、これは間宮さんの仕事にも直結しています。
(そこで、末尾に乱数を用いた追悼の賦を付した次第です)
単に音の表層で土俗的なものを指向する、といったことではなく、間宮さんは間宮さん一流の方法(例えば「足の裏で考える音楽」といった表現、オーケストラのための「2つのタブロー‘65」などで、人類の文化としての表現を考えておられ、これはご本人からも、また松村を通じての「間宮はこういうけれど」といった話でも繰り返し聞かされました。
しかし、私にとって非常に大きかったのは、もう少し違った「秀逸な古典の継承者」としての間宮さんの「劇伴」テレビや映画の音楽で、私はここから決定的な影響を受けました。
そもそも、間宮、林の両氏が、これまた極めてレフトウイングな、筑豊の炭田で炭鉱夫の労働運動を指導していた谷川雁(1923-95)氏らの創設した外国語教育の「ラボ教育センター」のオーディオ教材などに提供した秀逸な「英語教材」の伴奏音楽群が、私にとってはほとんど「幼児洗礼」の意味を持ちました。
全くの私事ですが、私の母は英語の教師で、家計の助けに、父の旧制高校の同級生や後輩も参加していた「ラボ教育センター」から録音教材を提供してもらい、家で「母と子の英語教室」などを開いていました。
このため、私にとっては、林光や間宮芳生の音楽は、あれこれ認識する以前の乳児期から「すでにあるもの」原体験以前の原体験として、刷り込まれていた「音楽地盤」にほかなりません。