「教科書墨塗り世代」の創意と反骨
朝日新聞の訃報記事に加筆して、間宮さんの略歴を引用しつつ考えてみます。
「1929年北海道旭川市生まれ。東京音楽学校(現東京芸術大学)で池内友次郎に師事した」
1929年というのは恐ろしく大成した作曲家が多い生り年です。
間宮芳生さんのほか、矢代秋雄(1929-76)、黛敏郎(1929-97)、松村禎三(1929-2007)・・・と有産な作曲家が多く輩出しています。
いま記した4人に共通するのは、すべて「池内友次郎(1907-91)という共通の師に学んでいる点でしょう。
池内友次郎氏は誕生の折は「高浜友次郎」でした。
それが池内家に養子に出た。お父さんは高浜清といいますが、生まれたときは「池内清」で、高浜家に養子に出されたので、次男坊の「友次郎君」を実家に戻したのです。
「高浜清君」はシャレの分かる人物で、キヨシをちょっと詰めて「キョシ」をペンネームに文芸雑誌などを創刊編集、執筆創作の人生を送ります。
漢字では「高浜虚子」、彼の雑誌「ホトトギス」は俳句を中心とする雑誌ですが、留学でノイローゼになった友達が、療養のため試作した小説を乗っけたりもした。
「吾輩は猫である。名前はまだない・・・」夏目金之助(漱石)の処女小説も、キョシ君の雑誌から世に出たものでした。
池内友次郎先生にとって「夏目さん」は時折見かける、生家の父親の友達で、実父の手ほどきで俳句をヒネッたりもし、その延長で和声や対位法、フーガなどの音楽労作(おんがくろうさ)も、俳句の言葉を併用して教えられた。
戦前の日本で西欧音楽の教育はいまだ遅れた状態にありました。
池内友次郎は日本では音楽学校に通わず、慶應義塾からまっすぐフランスに留学、M.ラヴェルなどの薫陶を受けます。
1945年の敗戦後、当時支配的だった「ドイツ留学組」・・・山田耕筰氏、信時潔、弘田龍太郎、橋本国彦といった東京音楽学校の教授陣はドイツ、オーストリアなどに留学していました・・・は、戦時中の責任、ナチスとの関係から学校を追われ/去ります。
代わって作曲の池内、ピアノの安川和壽子(1922-96)などのフランス留学組、北海道大学出身で独学の伊福部昭(1914-2006)など、ナチスの陰のない若手に教授陣が一新。
進取の気性に富んだ清新な空気の中から芥川也寸志(1925-89)團伊玖磨(1924-2001)黛敏郎、矢代秋雄、間宮芳生、林光(1931-2012)、外山雄三(1931-2023)、助川敏弥(1930-2015)などの才能が育ちます。
ここに名がない、主要な作曲家としては、湯浅譲二(1929-2024)、武満徹(1930-96)、三善晃(1933-2013)、一柳慧(1933-2022)や松村禎三の名が挙げられます。
湯浅さん、武満さんは本質的にシュールレアリストで詩人、美術評論家でもあった瀧口修造氏(1903-79)の薫陶が絶大など、いまだ音楽は詩や文学、ビジュアルアートとも密接な関係を持ち、池内友次郎の内弟子となった松村禎三は、俳句の言葉で音楽を学びます。
実は私自身が松村の内弟子ですので、同じように俳句の言葉で和声などの音楽書法を教わりました。
間宮さんの世代がいかに芸術横断的な人材にあふれていたか、お分かりいただけたらと思います。
そして彼らが一様に1945年8月をティーン・エイジャーとして迎え、戦後の「教科書墨塗り」を経験していることに注目したいのです。
武満、三善、松村、一柳、そして間宮、湯浅といった人々は、戦後のアバンギャルド、偶然性などの概念も自らの血肉に消化しながら音楽を紡ぎ、あるいは鋭い論考で社会にもの申し、造形やビジュアルでも作品を残しています。
本稿では間宮さんへの追悼として、末尾に、いま私が音楽学生たち、あるいは中学生対象でも教えているシステムを用いて、AI支援で詠ませた間宮さんへの「追悼句」と、一様乱数を用いて描画させたグラフィックスを付しておきます。
こうした分野横断型のAI支援教育、創成創造については、稿を改めて記したいと思います。