伊能と、19歳年下ながら彼の師であった幕府天文方の高橋至時(1764-1804)は、正確な暦を作成するうえで地球の子午線の長さを正しく知りたいと思っていました。純粋に科学的な興味であり動機です。
彼らは地球が球体であることを知っていました。球体なのに人も水も「下」に落ちては行かない(実は中心に向かって落ち続けているわけですが)なんて不思議なことでしょう。
幕末の科学者たちは純然たる世界の不思議に胸を躍らせました。50を過ぎて私財を投じ永遠の理法に夢を持つ伊能、そんな「弟子」を持って宇宙の不思議に純粋な疑問を持つ高橋至時。
「地球というのは、本当はどれくらいの大きさを持つのだろう?」
それを知りたい、という動機を持った彼らに「蝦夷地にロシア人出没」という報が寄せられます。ロマノフ朝ロシア帝国の特使ラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきたというニュースです。
鎖国体制とはいえ、幕府は喫緊の事態に対策を立てねばならなくなりました。通商であれ海防であれ、はたまた軍事であれ、基本となるのは「地図」です。可能な限り正確な蝦夷地測量の必要性が生じました。
「これを利用しない手はない」と考えたのが高橋と伊能だったわけです。彼らは必ずしも測量だけがしたかったわけではない。蝦夷地と江戸という長い基線距離があれば、天体観測を通じて地球の大きさを知ることができます。
「子午線1度の距離を測りたい」というのが彼らの本当の願いでした。
子午線、つまり赤道と同じく地球全体の半径による「天体の大円」の大きさが分かれば、その表面の1点に過ぎない江戸や長崎、蝦夷地などでの天体観測結果から、さらに精緻な暦を得ることができます。
従来の経験的な数値はどれも信用するに値せず、高橋も伊能もこれが不満でした。
地球というものの果てしない全体像を知りたい・・・この、営利も政治もへったくれも関係のない純粋な情熱を胸に秘めながら、「ロシア船来航」という現実への対応策として、高橋は幕府に「蝦夷地測量」の計画を提出したのです。
やや難航したものの、許可が下り、伊能たちは北海道に向かうことができました。若い時から数術が好きだった伊能忠敬は、このときすでに55歳になっていました。