
(町田 明広:歴史学者)
武市半平太は正当な評価を受けているのか?
幕末土佐藩における人物を挙げるとすると、読者の皆さんは誰を思い浮かべるだろうか。やはり、坂本龍馬がダントツの一番人気であることは想像に難くない。その他の人物として、例えば、山内容堂、板垣退助、後藤象二郎、中岡慎太郎、中浜万次郎といった名前が挙がりそうだが、その二番手のグループの中に武市半平太も入るのではなかろうか。
武市は、文久3年9月(1863年11月)には投獄されており、慶応元年閏5月(1865年7月)に切腹している。つまり、武市は元治・慶応期(1864~67)の政治史(政局)には関わっていないため、印象が薄れるのかも知れない。しかし、幕末政局が最も激しく動いた文久期(1861~63)において、主役級の役割を演じたのが武市半平太であることは間違いない。
2025年は、その武市の没後160年にあたる節目の年である。今回は、幕末前半の政治史に大きな足跡を残した武市半平太を7回シリーズで取り上げ、その壮絶な人生の実相に迫り、武市という尊王志士の歴史的意義について考えてみたい。
武市の生い立ち
文政12年(1829)9月27日、武市半平太は土佐国吹井(ふけい)村(現在の高知市仁井田)の白札(功績によって上士扱いされた郷士、3人扶持・切米7石)である武市半右衛門の長男として誕生した。幼名は鹿衛、諱は小楯、号は瑞山または茗澗、変名は柳川左門と称した。
武市家は、長宗我部氏の一領具足(兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成・運用された、半農半兵の兵士および組織の呼称)に属し、関ヶ原合戦(1600)の後に浪人したが、享保11年(1726)に山内家の家臣・郷士となり、文政5年(1822)には白札格に昇任したのだ。
叔母は国学者・鹿持(かもち)雅澄と結婚しており、その鹿持は私塾・古義軒を開設し、武市を始め吉村寅太郎・大石弥太郎・佐々木高行ら多くの人材を輩出した。武市も鹿持から甚大な影響を受けたが、両者間の交流には不分明な点が多い。
武市の幼年期の学修状況は詳らかにできないが、勉強熱心であったと伝えられている。12歳頃から剣術を習い始め、高知城下・新町の千頭伝四郎(足軽身分)の道場で小野派一刀流の修行をした。武市の天賦の才が、急速に開花した時期である。