江戸出府と剣術修行

嘉永6年(1853)10月21日、武市半平太は目付方から西日本出張の沙汰を受けた。目的は、「臨時御用筋」(内容は不分明ながら、剣術修行か)であった。しかし、僅か10日ほどで取り消しとなった。詳細は不明ながら、土佐藩主山内容堂はペリー来航を踏まえ、藩政改革を志向しており、海防や大砲製造などの要員として武市に期待していた可能性を指摘したい。
安政元年(1854)11月5日、安政の南海地震が発生し、埋立地である新町はすべての家屋が全壊する大被害を被った。本町に仮住まい後、武市は自宅を再建し、4畳と3畳が1間ずつの小さな家にもかかわらず、立派な道場を建築したのだ。
午前は槍、午後は剣の稽古時間とし、富子の叔父島村寿之助が槍を、武市が剣を教授した。島村の指導中は、武市は麻田道場で指導と稽古に勤しんだ。剣の名声が増して、藩政府から田野・赤岡の剣術指南に任命された。いずれも郡奉行所があり、郷士や庄屋とその子弟ら(中岡慎太郎など)が多数修行しており、武市にとって遣り甲斐のある仕事となったのだ。
安政3年(1856)8月、武市は藩命により江戸へ出立した。9月下旬には、武市は土佐藩築地中屋敷内で坂本龍馬・大石弥太郎と3人で同宿を開始した。浅蜊河岸の鏡新明智(きょうしんめいち)流・桃井春蔵の道場・士学館に岡田以蔵とともに入門し、直ぐに頭角を現した。
入門した頃、塾生の多くは酒や女に溺れており、「安方(あほう)塾之者」(島村源次郎宛書簡、安政4年〈1857〉8月17日)と蔑視されていた。武市は堪り兼ねて、塾内の弊風を糺さねば師の名を汚すと直訴したため、桃井は武市を塾頭に指名した。武市は早速塾の規則を定め、乱れきった人の出入りを厳格化し、違反した門人には厳しく対処したため、塾内の空気が劇的に変化したのだ。
一方で、師範代・山本琢磨(土佐郷士)が内弟子・田那村作八(備中松山藩)と一緒に時計を奪って質に入れ、藩目付方に追われたため、武市は逃亡を幇助することもしている。ここでは、武市の郷党への甘さが目に付こう。
安政4年9月、武市は鏡新明智流の免許皆伝となった。同月、祖母(万延元年〈1860〉死去)の急病で帰藩した。10月には、「一生之中格段弐人扶持」の沙汰をいただき、安政6年(1859)、白札・郷士以下の剣術世話方を拝命した。翌万延元年8月15日頃、久松喜代馬・島村外内・岡田以蔵を伴って、武者修行に出発した。丸亀藩から始め、備中松山藩、広島藩、徳山藩、長州藩、12月に飫肥(おび)藩をもって終了とした。このころの武市は、剣術家としてのみ名を馳せていた。しかし、いよいよ武市も、激動の政局に翻弄されることになるのだ。
次回は、将軍継嗣問題と条約勅許問題を軸とした、当時の中央政局の状況に触れながら、武市による土佐勤王党の結成の経緯やその実態、武市の政治的動向などについて、詳しく迫ってみたい。