武市の剣術・砲術修行
天保14年(1843)、武市は14歳の時、父の眼疾から藩の仕事に出仕し始めた。弘化2年(1845)9月、16歳の時に正式に父の代役勤務を申請している。なお、同年1月、西洋流砲術の修得のため、徳弘孝蔵の塾に入門したが、坂本龍馬の同塾入門より10年も前であった。
嘉永2年(1849)、20歳の時、8月に母が、また翌9月に父も逝去した。80歳近い祖母の面倒を見るため服喪期間にもかかわらず、同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子と結婚した。このことによって、武市は藩の仕事および武術の修行に専心することが可能となったのだ。
武市の師匠である千頭伝四郎が病死すると、麻田勘七(大身・馬廻の次男)に師事した。道場は城に近い鷹匠町に立地し、門人の多くも身分の高い藩士であった。しかし、武市はそんなことは意に介さずに剣に打ち込み、嘉永3年(1850)、21歳で初伝に昇進した。
その後、武市は富子の実家(高知城下の東の外れ、新町の田渕)の近くに屋敷を持ち、庭に道場を設置して弟子に教授し始めた。引っ越しによって、武市には時間に余裕ができ、一層剣に磨きをかけることができたのだ。そして、麻田道場でも瞬く間に頭角を現し、嘉永5年(1852)には早くも中伝に昇進、安政元年(1854)には免許皆伝に至った。