
(町田 明広:歴史学者)
将軍継嗣問題とハリスの来日
武市半平太の動向を追う前に、安政期(1855~60)を中心に、当時の政治情勢について触れておこう。将軍就任直後から暗愚で病弱とされる13代将軍徳川家定では、未曽有の国難を乗り切れないとの判断が広く浸透していた。そのため、賢明・年長・人望の条件を満たす一橋慶喜を推す一橋派と、あくまでも血統を第一として、紀州藩主徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の二つの派閥が形成され、政争が繰り広げられた。まさに、改革派(一橋派)vs守旧派(南紀派)の様相を呈したのだ。
安政3年(1856)7月、ハリスは日米和親条約で開港された下田に上陸した。玉泉寺を総領事館と定めて直ちに出府を希望し、江戸での通商条約交渉の開始意向を開示したのだ。安政4年(1857)5月、下田奉行の井上清直らは日米和親条約を修補した日米約定(下田条約)に調印した。

これにより、長崎の開港、下田・箱館居留の許可、片務的領事裁判権(治外法権)等が取り決められた。ちなみに、領事裁判権とは外国人が現在居住する国の裁判権に服さず、本国の法に基づいて本国領事の裁判を受ける権利である。これは、日米修好通商条約にもそのまま取り入れられ、不平等条約の要因となったのだ。