吉田東洋

(町田 明広:歴史学者)

武市半平太による吉田東洋の暗殺

 武市半平太は藩政を牛耳る吉田東洋の失脚・追放を画策し、山内家の分家に働きかけた。しかし、山内容堂が絶大な信頼を寄せる東洋を敵に回すことは、誰しもがはばかる愚行であった。追い詰められた武市は、暗殺による事態打開に期待する方針を取らざるを得なかった。

 なお、直接の暗殺指揮者は武市の妻富子の叔父である島村寿之助であった。ちなみに、島村は慶応元年(1865)に土佐勤王党弾圧で永牢となるが、維新後は新政府に仕えた。なお、武市が暗殺現場にいた説もあるが不分明である。いずれにしろ、総指揮は武市と推断するのが妥当である。

 文久2年(1862)4月8日、吉田東洋暗殺事件が勃発した。襲撃者は、郷士の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助である。東洋は、城中で藩主山内豊範に「日本外史」の御前講を行ったが、当日は参勤交代で出発する前の最終講であった。奉行職以下の高級役人が列席しており、事後は酒宴が催された。

 午後10時頃に解散となったが、東洋を含む一同はほろ酔いのままであったが、場外に退出した。東洋は、追手筋の中途から一同と別れて帯屋町通りへ向い、これ以降は従者の家来2人のみと同道した。雨中、3士の襲撃を受け、東洋は斬殺されたのだ。なお、20人くらいの同志が周辺に待機しており、この暗殺劇を見届けている。大目付の福岡孝弟は、「江戸ニて井伊侯を路頭ニ撃候事跡ニ倣」(「壬戌変事」)と、桜田門外の変で斃れた井伊直弼に東洋をなぞらえている。

 翌朝には、雁切川原(現在の高知市鏡川の紅葉橋付近)に罰文(「下賤之者ヨリハ金銀厳敷取上、(中略)御名ヲタバカリ、結構成銀之銚子ヲ相調、且、自己之作事、平常之衣食住、弥花美ヲ極メ」『武市瑞山関係文書』)とともに、東洋は梟首された。罰文には、東洋への真偽不明の誹謗中傷が列記されていた。

 武市は、容堂の実弟・山内民部に依頼し、現藩主実父として力を持つ元藩主山内豊資(とよすけ)に期待をかけた。11月、吉田東洋派(新おこぜ組)が失脚し、東洋体制は完全に崩壊したのだ。ここに、反容堂の保守派と土佐勤王党の新体制が確立したことになる。