藩主一行の入京と武市の活躍

土佐藩最後の藩主、山内豊範

 文久2年6月28日、藩主豊範が参勤交代で出発した。しかし、入京するかどうかは、この段階では未決のままであった。7月12日、一行は大坂に到着したが、当時、全国的に麻疹が大流行しており、大坂でも蔓延していたため、藩主を始め岡田以蔵、武市の義理の甥・小笠原保馬らが罹患している。大坂では、患者が2000人程おり、死者も多数出ていた。

 一行は大坂で長期足止めとなったが、武市はこの状況をむしろ利用し、土佐藩主の入京を促す御内沙汰書の下賜に成功したのだ。8月25日、一行はとうとう入京を果たし、薩長に続き、国政と京都守衛に尽力することを求める、孝明天皇よりの沙汰書を下賜された。武市の面目躍如の瞬間であろう。

 武市は、閏8月、藩主豊範の名で朝廷への建白草案を作成した。摂津・山城・大和・近江(河内・和泉)の4カ国を天皇領とし、その地の大名は幕府から移封(天領より指定)を命令するとし、親王をそこに配置して全国から優れた志士を招いて召し抱えることを提言した。

 さらに、参勤交代の緩和を要望し、肥後・岡山・鳥取・徳島、さらに九州諸藩を上洛させ、綸旨を下賜して攘夷を促し、その上で勅使を将軍に派遣して、朝廷権威を天下に誇示することを強調した。しかし、幕府に対する遠慮と急進的な内容から、この建白は見送りとされたのだ。

 なお、「此度屹度名分御正遊ばされ、政令一切朝廷より御施行ニ相成」(『武市瑞山関係文書』)と、武市は王政復古を支持した。しかし、この考えは武市のオリジナルではなく、この当時の尊王志士の一般的な思想であった。例えば、平野国臣「尊攘英断録」では、薩摩藩のような大藩に頼って幕府を膺懲(征伐して懲らしめること)の上、天皇による兵権も掌握した親政を目指し、徳川家から皇族への征夷大将軍の交代を企図した。実質的に、将軍家を否定しており、結果として幕府否定の志向であった。

 次回は、武市による天誅の全容をできるだけ明らかにし、攘夷別勅使の派遣の決定とその実現に至る武市の動向を、薩摩藩の策略にも目配りしながら詳しく追ってみたい。