文久元年(1861)から2年の政治動向
ここで、吉田東洋暗殺前後の政治動向を、中央政局を中心に言及しておこう。まずは、長州藩の動向であるが、藩是となった航海遠略策(文久元年3月、直目付・長井雅楽が起草)を引っ提げて国事周旋に乗り出した。
航海遠略策の中で、朝廷は幕府に大政委任をしているとの認識を示し、暗に通商条約の勅許を要求した。また、鎖国の叡慮(天皇のお考え)を曲げて海軍を建設し、外国に押し渡る航海交易論の採用を提言した。長井は、朝廷から通商条約の勅許を引き出して公武合体を成し遂げ、挙国一致して外国に対峙することを画策したのだ。まさに、未来攘夷に則った対外政略である。文久元年5月、孝明天皇は航海遠略策を嘉納した。つまり、勅許前提で受け入れたのだ。
これに対し、久坂玄瑞をリーダーとする松下村塾グループに桂小五郎が加わり、藩政トップ周布政之助を取り込んで、長井排斥派が形成された。久坂による朝廷工作から、文久2年5月に嘉納は取り消された。しかも、7月に入京した藩主毛利敬親は、世子定広を始めとする藩要路と御前会議を開き、孝明天皇の叡慮を最優先し、藩是を航海遠略策から破約攘夷へ転換することを決定したのだ。

次に、薩摩藩の動向について、島津久光の率兵上京(文久2年4月)によって、中央政局での、ひいては幕末維新史での主役として登場した。この率兵上京によって、幕末政治史が中央政局に移行し、弥縫されていた幕府権威が、誰の目から見てもわかるように失墜した。また、朝廷内に朝議参画を目指す中・下級公家からなる改革派廷臣を派生させ、西国雄藩を中心とする諸侯の上京や尊王志士の過激な行動が顕在化する端緒となったのだ。
久光は、老中制から雄藩連合制へ移行させ、さらには自身の幕政参画への足掛かりとし、リーダー不在の幕府中枢に参画し、国政を牽引する志向を持っていた。一橋慶喜および松平春嶽の登用を企図し、勅使派遣を実現して江戸に乗り込み、慶喜らの登用を実現するも、久光自身の参画は叶わなかった。
こうした状況下において、武市は3藩(土佐・薩摩・長州)の藩主を擁立して上京を画策したが、東洋亡き後も保守派要路はそれに躊躇した。方針が未決のまま、藩主豊範の参勤交代の出発が延期されたため、業を煮やした武市は同士を上京させ、三条実美を通じて武家伝奏・中山忠能から藩主上京・禁裏守衛という朝廷の意向を獲得することに成功したのだ。一方で、江戸の容堂に意向を打診することが先決であるとの言説を盾に、要路は上京諾否の結論を先送りし、武市をいらだたせ続けたのだ。