安政の大獄と山内容堂の対応

安政5年8月8日、それまでの大政委任体制を朝廷自らが否定し、水戸藩に勅諚を下賜し、諸藩にも内報された極めて意義深い事件、戊午の密勅が起こった。勅許なく、幕府が通商条約に調印したことを強く非難し、御三家および諸藩には幕府に協力して公武合体の実を挙げること、幕府には攘夷推進の幕政改革を成し遂げることを命令したのだ。伝達方法だけでなく、内容的にも幕府の面目は丸つぶれとなった。
水戸藩による朝廷工作によって、戊午の密勅が下賜されており、大老井伊直弼は斉昭が黒幕と睨んで、何とか証拠を見つけて徳川斉昭を罰するために、徹底的な捜査を命令した。ここに、安政の大獄が勃発したのだ。
捜査範囲は広がり続け、未曽有の大弾圧事件に発展した。山内容堂は参政吉田東洋の助言により、先手を打って隠居したが、謹慎となり江戸在住を強要された。しかし、安政7年3月3日(1860、3月18日に万延に改元)、桜田門外の変での井伊大老の横死後、9月に容堂は謹慎解除となっている。